分子神経生理研究系は3つの研究部門(神経機能素子研究部門,分子神経生理研究部門,ナノ形態生理研究部門)から成り立っており,生理学研究所「研究の5本の柱」のうち,主に「機能分子の動作・制御機構の解明」を担当している。また,ナノ形態生理研究部門を中心に「四次元脳・生体分子統合イメージング法の開発」にも参加している。
イオンチャネル,受容体,G蛋白質等の膜関連蛋白は,神経細胞の興奮性とその調節に重要な役割を果たし,脳機能を支えている。本研究部門では,これらの神経機能素子を対象として,生物物理学的興味から「その精妙な分子機能のメカニズムと動的構造機能連関についての研究」に取り組み,また,神経科学的興味から「各素子の持つ特性の脳神経系における機能的意義を知るための脳スライス・個体レベルでの研究」を目指している。
具体的には,分子生物学的手法により,神経機能素子の遺伝子の単離,変異体の作成,蛍光蛋白やマーカーの付加等を行い,卵母細胞,HEK293細胞等の遺伝子発現系に再構成し,パッチクランプ等の電気生理学的手法,細胞内Ca2+イメージング・全反射照明下でのFRET計測等の光生理学的手法,細胞生物学的手法により,その分子機能を解析している。また,外部研究室との連携により,構造生物学的アプローチ,遺伝子改変マウスの作成も進めている。
研究課題は以下の通りである。
図1 ATP受容体チャネルP2X2の膜電位と [ATP] に依存するゲート機構の構造基盤の同定。変異体解析により同定した重要なアミノ酸残基を,P2X4の結晶構造 (Kawate et al., 2009) に基づいたP2X2のホモロジー構造モデル上にマップした。
図2 GABAB受容体のリガンド結合に伴うサブユニット配置の変化。
図3 KCNEサブユニット結合によるKCNQ1チャネル電位センサードメインの動きの制御の MTSES accessibility による解析。
図4 マウスTRPA1チャネルはカフェインにより活性化され,ヒトTRPA1チャネルは抑制される。
(1)神経系の発生過程において,神経系を構成する多くの細胞は共通の前駆細胞である神経上皮細胞から発生・分化してくる。分子神経生理部門では,神経上皮細胞からどのようにして種々の細胞種への分化決定がなされるのか分子・細胞生物学的に研究している。その中でも,グリア細胞の系譜については,未だ不明の点が多く,遺伝子改変マウスの作製,免疫組織学的手法やin situ hybridization法並びにレトロウイルスによる細胞系譜解析を駆使して解析を進めている。また,再生医療を目指して神経幹細胞移植により脱髄マウスを治療することを試みている。
(2)神経上皮層で増殖し分化の方向の決まった細胞は,機能する部位に向かって移動することが知られている。神経系で見られる細胞移動は,大脳や小脳の皮質形成過程でみられるニューロンの放射状移動については詳細に調べられているが,比較的長距離を移動する正接方向への移動やグリア前駆細胞の移動に関しては,不明な点が多い。このような細胞の移動様式や制御機構を明らかにするために,発達途上の脳内に様々な遺伝子を導入して,形態学的に解析している。
(3)神経幹細胞は,脳を構成する全ての神経細胞・アストロサイト・オリゴデンドロサイトの前駆細胞である。発達期の胎仔脳のみならず成体脳にも存在し,成体脳の特定の部位における神経細胞の新生に関与している。神経幹細胞の発生から,増殖・維持・分化さらに老化に至るまでを制御している分子機構を解明し,神経幹細胞の生体内での挙動を明らかにすることを目指している。
(4)脳の発達段階における糖蛋白質糖鎖構造を独自に開発した方法を用いて解析したところ,個人間で極めてよく保存されていることが明らかとなった。現在,脳の領域化や癌の発生・転移におけるN-結合型糖鎖の重要性について研究している。
(5)以上の研究において開発した神経系における遺伝子導入技術を利用して遺伝子治療の基礎的研究を行っている。
A)エレクトロポレーション法によるマウス胎児脳への遺伝子導入
マウス脳室内に緑色蛍光遺伝子(GFP)発現ベクターを注入した後,エレクトロポレーションを行った胎児脳の限局した領域に効率よく遺伝子導入できることが分かった。
B)神経幹細胞の成体脳への移植
全身でGFPを発現するマウス胎仔脳より神経幹細胞を培養・単離し,成体脳へ移植した。移植から4週間後の脳においてGFP陽性細胞が観察され,形態からアストロサイト(矢印)・オリゴデンドロサイト(矢頭)・神経細胞(2重矢頭)へ分化したことがわかる。
C)ATPとグルタミン酸放出の可視化
I) 培養アストロサイト低浸透圧ストレス負荷時に観察されるATPの放出。ルシフェリン−ルシフェラーゼ反応による発光を利用してATPの局在が可視化できる。
II)同じく低浸透圧ストレス負荷時に観察されるグルタミン酸の放出。Glutamate optic sensorを細胞膜上に固定し(a),グルタミン酸濃度変化に依存した蛍光強度の変化を求めた。正常状態(b)ではグルタミン酸放出は観察されないが,低浸透圧下(c)ではグルタミン酸放出が一つ一つの白い固まりとして可視化出来る。
新しい学問領域は,新しい方法論の発見・発明によりスタートすることが多い。例えば,現在医学の診断に幅広く使われている磁気共鳴イメージングは,もともと分光装置として誕生した磁気共鳴 (NMR) から生まれ,近年は機能イメージングとして脳研究にまで利用されている。
このように,各学問分野の急速な発展の裏には新しい方法論の発見がある。その方法論が,新しい分野を生み出すきっかけを与え,それがまた新しい方法論を次々に生む。こうした革新的方法論を戦略的方法論と呼ぶ。
統合バイオサイエンスという新しい学際領域は,領域間の単なる和では確立し得ない困難さを持っている。そこで,領域全体を引っ張る新しい方法論のブレークスルーが必要となる。すなわち,従来の方法では見えなかった1分子レベルの3次元構造解析,分子レベルの機能の入出力解析,細胞系のその場の機能観測などを可能にする戦略的方法論が期待されている。
具体的には,以下の研究を行っている。
図1.電子位相顕微鏡法の3種
a.焦点はずし(デフォーカス)を導入し,分解能を犠牲にしてコントラストを向上する通常法(明視野法)。
b.ゼルニケ(Zernike)位相版(π/2シフト)を対物レンズ後焦点面に挿入し,正焦点で高コントラストを回復するZernike位相差法。
c.半円位相版(πシフト)を後焦点面に挿入し,微分干渉光学顕微鏡と同じような地形図的位相像を得るヒルベルト(Hilbert)微分法。
図2.2つの電子位相顕微鏡装置
a.300kV分析型極低温電子顕微鏡(FEG,He-ステージおよびエネルギーフィルター搭載)に薄膜位相板を挿入。
b.200kV低温トモグラフィー用電子顕微鏡(FEG, N2- 傾斜ステージ,エネルギーフィルター搭載)に薄膜位相板を挿入。
図3.シアノバクテリアの300kV全細胞氷包埋像と100kVプラスチック包埋切片像 (Kaneko et al., J.Electro. Microsc. 54(2005)79)
a.Hilbert微分法で観察したシアノバクテリア300kV氷包埋像。無染色にもかかわらず細胞内構造が2nmの分解能で見える。
b.通常法で同一サンプルを観察したときのシアノバクテリア300kV氷包埋像。コントラストが低いため内部構造を特定できない。
c.固定,脱水,プラスチック包埋,電子染色して得たシアノバクテリアの100kV切片像。化学的処理は時間がかかり(~数日),かつ細胞内構造を破壊する。従って切片像では10nm以下の微細構造を議論するのが困難であった。
図4.インフルエンザAウィルスの2次元および3次元位相差電子顕微鏡像
a.通常2次元像 (300kV)。
b.ゼルニケ位相差2次元像 (300kV)
c.ゼルニケ位相差トモグラム(3次元像)の1断面図 (200kV)
d.ゼルニケ位相差トモグラムより再構成したインフルエンザゲノムの3次元像 (200kV)
(d.の3次元グラフィックスは自然科学研究機構イメージングサイエンス研究分野武田隆顕氏製作)
図5.X線結晶解析と通常電顕観察のギャップを埋める位相差低温電顕法
a.脂質相互作用蛋白質PCHのEFCドメイン2量体のX線結晶解析から紐状構造が決定(①)。PCHが脂質のチューブ化にかかわっていることが,陰染色の電顕観察から判明(②)。この2つの知見をもとにチューブ化機構として③のようなモデルが提出された。
b.このモデルを証明する観察が位相差法の適用で明らかになった(①)。フーリエ変換の解析結果(②, ③)から脂質に隙間なく巻きついた蛋白質の間隔は,4nmで,これはX線構造からの推定値と符合した (Shimada et al., Cell , 129(2007)176)。