生理学研究所年報 年報目次へ戻る生理研ホームページへ

20.「シナプス可塑性とまるごとの脳機能」

2002年5月23日−5月24日
代表・世話人:井ノ口 馨(三菱化学生命科学研究所)
所内対応者:森 泰生(統合バイオサイエンスセンター)

(1)
魚の逃避運動を発現するマウスナー回路の可塑性
小田洋一(大阪大学大学院生命機能研究科)
(2)
記憶課題中の情報コーディングとセル・アセンブリの活動
櫻井芳雄(京都大学大学院文学研究科)
(3)
転写調節因子CREBによる記憶の固定化・再固定化の制御
喜田 聡(東京農業大学応用生物科学部)
(4)
マウス嗅覚系における神経回路形成の分子機構
坪井昭夫(東京大学大学院理学研究科)
(5)
発達期の神経活動が視覚野神経回路に与える影響
畠 義郎(鳥取大学医学部)
(6)
扁桃体における随意行動発現の神経機構
西条寿夫(富山医科薬科大学医学部)
(7)
フェロモン記憶を支えるシナプス可塑性
椛 秀人(高知医科大学)
(8)
痛みと可塑性
植田弘師(長崎大学大学院医歯薬学総合研究科)
(9)
マウス瞬目反射条件付けの分子神経機構
桐野 豊(東京大学大学院薬学系研究科)
(10)
イムノトキシン細胞標的法を用いた大脳基底核神経回路の機能研究
小林和人(福島県立医科大学医学部)
(11)
神経インパルスの発火パターンと分子変化
伊藤康一(東京都臨床医学総合研究所)
(12)
線虫の化学走性行動とその可塑性
飯野雄一(東京大学遺伝子実験施設)
(13)
ナメクジの匂い中枢における同期振動活動の生理的意義
渡辺恵(東京大学大学院薬学系研究科)

【参加者名】
井ノ口馨,斎藤喜人,井上浩太郎,上田洋司,沼澤理子(三菱化学生命科学研究所),伊藤康一(東京都臨床医学総合研究所),桐野豊(東京大学大学院薬学系研究科),小林和人(福島県立医科大学医学部),高橋正身(北里大学医学部),椛秀人(高知医科大学),畠義郎(鳥取大学医学部),渡辺恵(東京大学大学院薬学系研究科),櫻井芳雄(京都大学大学院文学研究科),高橋晋(慶應義塾大学大学院理工学研究科),植田弘師(長崎大学大学院医歯薬学総合研究科),尾藤晴彦(京都大学大学院医学研究科),喜田聡,細田浩司,鈴木章円(東京農業大学応用生物科学部),遠藤健吾,高橋清文(東京農業大学応用生物科学部),西条寿夫(富山医科薬科大学医学部),真鍋俊也,新里和恵(神戸大学大学院医学系研究科),渡部文子(東京大学医科学研究所),城山優治,志牟田美佐,熊澤紀子,片山憲和,有馬史子,松井 稔(東京大学医科学研究所),小田洋一(大阪大学大学院生命機能研究科),坪井昭夫(東京大学大学院理学研究科),飯野雄一,広津嵩亮,富岡征大,池田大祐(東京大学遺伝子実験施設),狩野方伸,山崎美和子,吉田隆行,鳴島円,橋本谷裕輝(金沢大学大学院医学系研究科),和田由美子(理化学研究所),伊澤栄一(名古屋大学生命農学科),堀尾修平(徳島大学薬学部),吉田 敏(岐阜大学工学部生命工学科),青木直哉(名古屋大学生命農学科),柳原大(豊橋技術科学大学),西田基宏,吉田卓史,五日市友子,山田和徳(統合バイオサイエンスセンター) 

【概要】
 シナプス可塑性の研究に立脚しつつ,その視点から丸ごとの脳機能を理解することを目指して研究を進めている研究者が一堂に会して,脳の高次機能を本当に理解するためにどのようなアプローチが可能かを議論し,今後の展望を探索した。

 最近の脳神経研究の進展によりシナプス部位での情報処理,すなわちシナプス可塑性の分子機構については,不十分な点はあるにせよ,ある程度全体像が見渡せるようになった。そこで本研究会ではその先の問題である「シナプス可塑性と神経回路レベルの情報処理」や「シナプス可塑性と脳内の情報コーディング」に焦点を当てた。具体的には,学習・記憶をはじめ情動や感覚情報処理など幅広い脳機能を対象とし,情報がどのように処理されているのかを分子レベル・回路網レベルさらには行動レベルまで含めて包括的に考察し,脳高次機能の全体像を解明するための手がかりが得られた。

 

(1)魚の逃避運動を発現するマウスナー回路の可塑性

小田洋一(大阪大学大学院生命機能研究科)

 硬骨魚の逃避運動をトリガーするマウスナー(M)細胞は入出力系が単純明確で,しかも逃避運動とM細胞の活動が1:1に対応するので,学習における運動変化とシナプス可塑性の因果関係を直接調べる系として注目される。実際に,キンギョのM細胞上に起こる抑制性シナプスの長期増強(LTP)と逃避運動の学習とのリンクを明らかにした(Oda et al.,1998)。さらにゼブラフィッシュ稚魚のM細胞にレーザ顕微鏡を用いて抑制性シナプス応答を初めてイメージングし(Takahashi et al.,2002),LTPを光学計測した。また,M細胞の相同ニューロンからなる神経回路からこの運動の並列処理過程に迫りたいと考えている

 

(2)記憶課題中の情報コーディングとセル・アセンブリの活動

櫻井芳雄(京都大学大学院文学研究科)

 近年の実験心理学が提唱してきた「情報ネットワークとその変化による記憶情報処理」を,脳内の機能的な神経回路(セル・アセンブリ)とその動的変化という,具体的実体として検出することを目指している。研究ストラテジーは,複数の記憶課題(マルチタスク)を行っている同一動物の脳内から,複数のニューロン活動(マルチニューロン活動)を,全ての課題を遂行している期間にわたり連続的に同時記録することである。これまでに,それぞれ異なる刺激情報をコードするマルチタスクを同一のラットが行う際,海馬体と新皮質において,互いに重複したニューロンから成るセル・アセンブリが課題の種類をコードしていることを示した。また,刺激情報を弁別する課題をコードするセル・アセンブリが,その刺激が持つ時間情報を弁別する課題をコードするセル・アセンブリを完全に内包することも明らかにした。しかし,そのような行動と電気生理の組み合わせだけでは不十分であり,課題中に実際に活動している広範な神経回路網を可視化することも必要である。そこで,ラットがマルチタスクを遂行している際,課題の違いにより遺伝子(c-Fos)発現が動的に変化することを示した最近の実験結果についても紹介する。

 

(3)転写調節因子CREBによる記憶の固定化・再固定化の制御

喜田 聡(東京農業大学応用生物科学部)

 記憶は学習,短期記憶を経て固定化され,固定化後にも保持・想起といった様々なプロセスを経て活用される。また,最近,想起された記憶が,再貯蔵される過程でも,固定化と類似した分子機構による再固定化のプロセスが存在することが提唱されている。一方,記憶の固定化に必須である新規遺伝子発現に,転写調節因子CREBが関与することは,CREBa/d欠損マウスが長期記憶形成に障害を示すことから示唆されている。

 我々は,このCREBの学習・記憶の様々なプロセスに対する役割,CREBによる記憶形成の分子機構を明らかにする目的で,前脳においてLBD-CREB S133Aを発現し,薬剤(タモキシフェン投与によりCREを介した転写を誘導的に阻害可能なトランスジェニックマウスを作製した。現在までの行動学的解析から,CREBが記憶の固定化,さらに,再固定化のプロセスに必須であることが明らかとなった。また,CREBを介する情報伝達を強化したトランスジェニックマウスの作製も行っており,その解析結果も紹介する。

 

(4)マウス嗅覚系における神経回路形成の分子機構

坪井昭夫(東京大学大学院理学研究科)

 動物の嗅覚系では,全遺伝子の約2〜3%を占める一千種類のメンバーから成る嗅覚受容体遺伝子ファミリーにより,数十万種類の匂い分子が識別されている。一般に,嗅上皮上の嗅細胞において,匂い分子はその官能基を介して複数の嗅覚受容体と異なる親和性で結合し,高等それに伴い嗅球において,それら受容体に対応する糸球が,結合の度合いに応じて異なる強さで興奮する。従って,個々の匂い分子は,嗅球における糸球の空間的な興奮パターン(topographic map)の相違として識別されると考えられている。私共のグループでは,嗅覚系における匂い分子の識別に関して,次の2点に焦点を絞って研究を進めている。第一には,どの様な機構によって個々の嗅細胞が,嗅覚受容体遺伝子群の中から一種類のみを選択し,然も片方の対立形質のみを発現するのか,第二には,同じ種類の受容体を発現する嗅細胞が,何を手掛かりに軸索を嗅球に伸展し,特定の位置に収斂してtopographic mapを形成するのかである。本研究会では,これらの分子機構に関する最新の知見を紹介したい。

 

(5)発達期の神経活動が視覚野神経回路に与える影響

畠 義郎(鳥取大学医学部)

 ヒトやサル,ネコなどの哺乳動物では,大脳皮質一次視覚野の生後発達に正常な視覚体験が必要であり,異常な視覚入力のもとでは視覚野の神経回路網やニューロンの光反応性が異常になったり,失われたりする。例えば,発達期の動物において,一方の眼をふさぐなどして視覚入力を遮断すると,一次視覚野のニューロンは遮断されなかった方の健常眼にのみ反応するようになる。この現象は,個体レベルの可塑性のモデルとして数多くの研究がなされており,神経活動に依存したメカニズムを基盤とすることが明らかとなってきた。

 さらに,その分子メカニズムを探る研究から,視覚野の可塑性に各種神経栄養因子が重要な役割を果たす可能性が提唱されている。中でも,脳由来神経栄養因子は発達期の視覚野において,視床からの入力線維の皮質内分布に影響を与えることが報告され,特に注目されている。以上のような,神経回路網発達における神経活動や神経栄養因子の役割に関する知見を紹介する。

 

(6)扁桃体における随意行動発現の神経機構

西条寿夫(富山医科薬科大学医学部)

 近年,扁桃体など大脳辺縁系が随意的な行動発現に関与していることが示唆されている。本研究では,ラットを用いて要素感覚刺激(聴覚または視覚刺激)および構成感覚刺激(聴覚および視覚刺激の同時呈示)と報酬刺激の連合課題を学習させ,課題遂行中のラット扁桃体ニューロンの応答性を解析した。さらに,消去学習(感覚刺激と報酬の連合の解消)および再連合学習(感覚刺激と報酬の再連合)に対する扁桃体ニューロンの応答性を解析し,これらの学習中に可塑的に応答するニューロンの応答性と学習行動との相関を解析した。その結果,155個の応答ニューロンのうち,62個が報酬刺激と連合する感覚刺激だけに応答した。これら62個の識別応答ニューロンのうち45個に対して消去・再連合学習課題をテストした結果,26個のニューロンは,消去・再連合学習中に応答が可塑的に変化し(可塑的応答ニューロン),扁桃体基底外側核に局在していた。また,これら可塑的応答ニューロンの応答性とラットの行動との間に有意な相関のあることが明らかになった。これらのことから,基底外側核が感覚刺激と報酬の連合,およびそれにつづく行動発現に重要な役割を果していることが示唆される。

 

(7)フェロモン記憶を支えるシナプス可塑性

椛 秀人(高知医科大学)

 交尾を契機に雌マウスに形成される雄フェロモンの記憶は,妊娠の成立に重要な役割を果たしている。この記憶を支えるシナプスの可塑的変化は,鋤鼻系の最初の中継部位である副嗅球に起こる。副嗅球の中継ニューロンであるグルタミン酸作動性僧帽細胞は副嗅球に内在するGABA作動性顆粒細胞との間に,樹状突起同士の相反性シナプスを形成している。交尾刺激とフェロモン刺激が副嗅球において連合することによって,種々の情報分子が関わり,相反性シナプスに可塑的変化が生じる。本研究会では,最近の知見をもとにフェロモン記憶を支えるシナプス可塑性のメカニズムについて考察する。

 

(8)痛みと可塑性

植田弘師(長崎大学大学院医歯薬学総合研究科)

 「切り取られた右腕の親指が痛くて我慢が出来ない」。このような痛みは「幻肢痛」と呼ばれ,痛みが記憶として残ることを明瞭に表している。手術中にのみ有効な麻薬性鎮痛薬を投与すると,いわゆる術後痛という慢性痛が軽減される(先制鎮痛)という臨床経験は手術中の痛み記憶こそが,その慢性痛の原因たることを示している。帯状疱疹などによる神経傷害が回復した数ヶ月後に痛みが再発する神経因性疼痛では触覚が痛みに切り替わるという神経回路のスイッチ機構が関与することが知られている。こうしたメカニズムを分子のレベルで解明する手がかりを得,最近では創薬を目指した戦略的な研究も始めています

 

(9)マウス瞬目反射条件付けの分子神経機構

桐野 豊(東京大学大学院薬学系研究科)

 瞬目反射条件付けは,音を条件刺激(CS)とし,瞼への電気刺激(又は眼への空気吹きつけ)を無条件刺激(US)とする古典的条件付けの一つである。これまで,主としてウサギを用いて,遅延条件付け(CSに遅れてUSが始まり同時に終了する)の神経機構が研究されてきた。その結果,この学習には,小脳中位核と小脳皮質が必須であり,また,小脳皮質の平行線維àプルキンエ細胞シナプスのLTDがその神経substrateであるという有力な仮説が提唱されていた。

 我々は,いくつかの遺伝子変異マウス,薬物処理により脳の一部を不活性化したマウス等を用いた実験から,小脳LTD欠損マウスでは遅延条件付けが強く障害されることを見出し,これまでの小脳LTD仮説を支持する結果を得た。しかしながら,小脳LTD欠損マウスにおいても,トレース条件付け(CS終了後にUSが開始する)は正常であることを見出した。脳は瞬目反射に関わる神経機構をいくつか潜在的に有しており,パラダイムに依存してそれらを発動させるものと思われる。

 

(10)イムノトキシン細胞標的法を用いた大脳基底核神経回路の機能研究

小林和人(福島県立医科大学医学部)

 イムノトキシン細胞標的法は,複雑な神経回路から特定のニューロンタイプを誘導的に除去する分子遺伝学のアプローチである。ドーパミンは大脳基底核の神経回路を介して,運動および運動と関係する学習の制御に重要な役割を持つ。ドーパミンの作用は線条体における複数の投射ニューロンと介在ニューロンへの促進性あるいは抑制性の応答を誘導する。イムノトキシン細胞標的法を利用して線条体の特定ニューロンタイプを除去することにより,ドーパミンが大脳基底核回路を調節する仕組みが明らかになる。

 

(11)神経インパルスの発火パターンと分子変化

伊藤康一(東京都臨床医学総合研究所)

 脳の機能は,多数の神経細胞とグリア細胞が複雑に絡み合った回路の活性化が神経インパルスによって発現する。脳の機能の複雑さから神経インパルス発火パターンとそれに関与する分子の分子レベルでの相互関係は未だ不明な点が多い。神経細胞は,他の脳細胞には見られない特殊な機能,電気活動により情報が伝達され更に神経の可塑性が起こす,がある。つまりこの機能を理解することは脳高次機能の一つである学習と記憶のメカニズムを理解する上で重要な事である。本研究会において,培養神経細胞を用い様々なパターンでの電気刺激により特異的な変化を示す分子について考察したい。

 

(12)線虫の化学走性行動とその可塑性

飯野雄一(東京大学遺伝子実験施設)

 線虫C.エレガンスは全細胞が約1000個しかなく,そのうち302個が神経細胞である。これらの神経細胞は118種の形態的に異なった神経の集まりであると言われている。電子顕微鏡観察により,その神経系の全ネットワークが明らかになっているという稀有の特徴を持つ。

 我々はこの線虫の化学走性行動とその可塑性に関わる遺伝子の解析を進めている。線虫を匂い物質に数分間曝すことにより,その後の匂い物質への化学走性が顕著に低下する。匂い物質の受容とこの化学走性の可塑性におけるRas-MAPキナーゼシグナル伝達経路の多彩な働きについて議論したい。

 一方,線虫を餌のない状態で水溶性誘引物質に数時間曝すと,その物質への化学走性が正から負へと変化する。この可塑性には新しいタイプの分泌タンパク質であるHEN-1と,インシュリン様シグナル伝達経路が働いていることを見い出しており,これらの解析結果についても紹介する。

 

(13)ナメクジの匂い中枢における同期振動活動の生理的意義

渡辺恵(東京大学大学院薬学系研究科)

 多くの脊椎動物と無脊椎動物の感覚中枢神経で同期振動が存在している。同期振動を生じるメカニズムは多様であるが,多くの場合抑制性介在神経が重要な働きをしている。チャコウラナメクジの二次嗅覚中枢である前脳は10万個程度の微小な神経細胞から構成され,同期振動を生成する抑制性介在神経のバーストニューロンと,匂い情報をコードしていると考えられるノンバーストニューロンが含まれる。前脳は無刺激時には約0.7 Hzの局所場電位振動を生じている。触角へ匂い刺激を行うと,局所場電位の振動数や波形が変化するが,特に忌避性の匂い刺激は誘引性の匂いに比べて強く振動数を増大させた。振動数増加はバーストニューロンからノンバーストニューロンへの抑制性入力を増加させる。忌避性の匂いは外套膜収縮などの忌避行動を生じるが,このとき前脳の振動数増加に伴うノンバーストニューロンの抑制により,嗅覚レセプターから運動神経への経路の脱抑制が生じていることが予想される.

 


このページの先頭へ年報目次へ戻る生理研ホームページへ
Copyright(C) 2003 National Institute for Physiological Sciences