年頭のあいさつ(2008年)

【2008年01月01日】

岡田 泰伸

 「せいりけん」で学び、働く皆さんへ、新年あけましておめでとうございます。

 私たち人類はおよそこの250年、イデオロギーの何かは問わず、生産力を上げ続けることによってこそ皆に仕合わせがもたらされ、多くの矛盾も解決されるものと信じてきました。しかしながらこの考え方が、地球規模において美しい自然を破壊し、多くの国において麗しい人と人のつながりをも失わせるという危機的状況をもたらしたのではないかと、反省され始めています。ところが日本の科学技術政策はいまだにこの考え方に大きく依拠しているように見え、依然として即応用可能な開発型の応用科学に偏重した予算配分が行われています。たしかに応用科学は、新しい技術の開発や産業や医療の発展を生むという「文明的成果」につながる重要な学問です。しかし一方で、それによって新たに解決しなければならない深刻な問題が生じることもしばしばであり、これに対応できる準備や体制が整っておらず、その解決には多くの時日と費用を要し、時には犠牲をも伴うことも多かったのではないでしょうか。その時点では何の役に立つのかは全く不明な基礎研究分野の発展が、広い裾野を持つ形でなされていなければ、これに速やかに対応できる科学レベルや人材が用意されていないことになるのです。私たちはこれまで基礎科学は人類の「文化」の一つであるとして、その重視を訴えてきました。しかし今やこのような一般的視点のみからではなく、人類の危機的状況への対処の観点からも、基礎科学の重視をと声を大にしなければならないように思うのです。 

 私たちの「せいりけん」は、ヒトの体と脳の働き、そしてそれらの仕組みを解明するという大きな使命を持っています。その究極の研究対象は、あくまで自然の中にいるヒトであり、人体の中にある脳なのです。そのような立ち位置と視点にあることこそが、基礎科学としての「生理学」の本質なのです。その意味からも、人体生理学や脳科学の発展は、自然科学全般と基礎医学全般の発展と双方向的にカップルして得られるものであることを忘れてはなりません。また、ヒトや脳の活動が社会の中で行われている以上、人文科学の発展とも相互関係を結んでいかなければならないことも認識しておく必要があるでしょう。 

 「せいりけん」にとって今年は、とても重要な新しい節目となる年になるように思われます。わが国の脳科学の新たな推進のための中心拠点を担うことができるのかどうか、しかもそれを全国の大学や研究機関で様々なレベルと角度から地道に研究をしておられる方々のメリットにもなり、若手研究者の育成にもつながるものとして進めることができるかどうかがまず具体的に問われることになるでしょう。さらにはこれにとどまらず、脳科学以外の自然科学分野や脳科学に関連する人文科学分野の発展にも資するものとして進めてゆくことができるかどうか、そしてこの展開を「せいりけん」や「生理学」が将来的に求められる適正なあり方にいかにつなげていくことができるのか、なども問われて行くことになるでしょう。これらに応える具体的な企画と行動開始が、この一年に求められているのです。 

 今年は、「そうけんだい」が創設されて20周年を迎える年に当たります。先にも述べましたように基礎科学を広く総合的に発展させて行くことが、今や人類史的課題となっている現在、総合研究大学院大学の創設理念がますます重要となるに違いありません。私たちは、「そうけんだい」はあくまで自立した国際的なサイエンティストの育成をするところであると考えています。世界最先端研究機関を基盤としている点と、学部学生がいない大学である点が、良い意味でも悪い意味でも、「そうけんだい」を際だって特徴づけています。その意味で、ここでは手取り足取りの指導や教育は行われておりません。その代わりに、トップサイエンティストによるマンツーマン的な教育が行われています。大学院生には自主性と積極性とenthusiasm(一言で和訳はできないが、サイエンティストにとって最も大事な資質の1つ)が求められ、教員には全身全霊と全生活でもって手本を示す姿勢が求められるのです。 

 「そうけんだい」は、学部からストレートに同じ大学の大学院に進まないことを選んだ人々が多く入学する大学院であるという類い希な特色を有しています。その結果、大学院生には必然的に異分野をまたぐ(cross-disciplinaryな)資質が付与され、研究所には異なる視点と新しい見方が吹き込まれて刺激を受けるというメリットがもたらされます。わが国の大学院教育のもっとも大きな問題点である狭い「たこつぼ」的な縦割り教育の弊害から、「そうけんだい」はいわば解き放たれているのです。しかるに、このような「そうけんだい」へも最近、入学志望者数にかげりが見られることはとても心配です。これにはいくつかの原因が考えられますが、ここでは述べません。しかし、これもわが国の基礎科学の振興に黄信号をともすものであり、私たちは真剣にその対策を考える必要があるでしょう。 

 「せいりけん」が昨年来特に力をいれて、著しい成果を上げはじめていることに情報発信・広報活動が挙げられます。今年もさらにこの情報発信・広報活動を強化する必要があります。私たちの研究の多くが国民の税金によって支えられている以上、それに対する説明責任を果たす必要があることがその理由の第一であります。さらには、サイエンスは人類「文化」の内実の一つであり、その成果は人々によって共有されるべきものである点もその理由でしょう。これらの「そもそも論」的なものに加え、もっと差し迫った理由があります。広い視界と広い裾野を持った形での基礎科学の振興と、それを可能とする人材の育成が、いままさに求められることであることを国民の皆さんに広く理解いただく必要があるからでもあるのです。 

 皆さん、今年もまた、力を合わせて、しかも楽しみながら、よい仕事をして行きましょう。私もまだまだサイエンスのフロントにできるだけ身を置きながら、その感覚でもって全力で職務を果たして参りたいと思っております。本年が、「せいりけん」と皆さんにとって、素晴らしい年となりますよう。