基礎医学研究・教育の危機に緊急の対策を
自然科学研究機構 生理学研究所 所長
日本生理学会 会長・理事長
岡 田 泰 伸
このほど日本解剖学会と日本生理学会所属の両教室担当者を対象に行われた“日本解剖学会・日本生理学会による「基礎医学教育・研究」アンケート”の結果(http://www.anatomy.or.jp/またはhttp://physiology.jp/参照)によって、現在進行している「基礎医学教育・研究の危機」の深刻さがあらためて浮き彫りになった。
それによれば、まず第1にこれまで複数あった解剖学講座や生理学講座の統廃合・縮小化が進行し、両教室における講座数の減少化のみならず、教育・研究を担当する職員の定員数の減少化も進み、ひどい場合には2講座8名から1講座4名となってしまった例も見られている。そして第2に、研究を支える博士研究員(ポスドク)の在籍は、68%(医学部出身者MDについては92%)の教室で現在皆無の状態であり、61%(MDについては90%)の教室で過去5年間にわたって皆無であったという惨憺たる状況にある。第3に、将来の研究を担う大学院生についてもそれは同様であり、博士課程大学院生は現在34%(MDについては63%)の教室において在籍せず、過去5年間においても54%の教室にMDの大学院生は在籍していない。修士課程大学院生の場合には、現在70%、過去5年間でも60%の教室で在籍していない。
このような基礎医学教育・研究の現場におけるマンパワーの凋落は、法人化後の経済的効率の優先と、卒後2年間の臨床研修の必修化に原因するものと思われる。基礎医学教育の劣化は、未来の臨床医師のレベル低下をもたらし、基礎医学研究の衰退は臨床医学研究の衰退に直結するのみならず、将来的な医療レベルの低下や外国医療産業による植民地化をも臨床現場にもたらすことになるだろう。今こそ基礎医学に人材確保・投入するための何らかの根本的対策が講じられなければならない。
生理学や脳科学を含む基礎医学は、多数の分子や物質の集合がいかにして人体における複雑な生命現象を生みだし、いかにして心や精神を発生させているのかを解き明かす学問である。分子生物学とゲノム科学が明らかにしてくれた生命の物質的基盤を基礎にして、「分子から生命や精神への統合を」していく、いわば多体系・複雑系における非線型的なホメオスタシス創発現象を扱うというポストゲノム科学こそが、これからの基礎医学のあり方であろう。このような基礎医学の発展は、長い年月を要するかもしれないが、必ずや臨床医学・医療に革新をもたらす新しい知を人類にもたらすことになるのである。
基礎医学も含めて基礎科学研究、すなわち「学術」は、自然と人間と社会の基本原理を求めて、本来、自由発想にもとづく内発的・創造的な知的活動であり、その成果は「芸術」と共に人類の「文化」を形成するものである。その成果は、自然・人間・社会に対する認識を根本的に変革して人類の知を豊かにするが、必ずしもすぐに技術開発や産業応用につながるものではない。しかしながら、「量子力学」の例で端的に見られるように、長い年月の後に思いもかけないほど大きな新技術開発へとつながるものである。下村脩博士のノーベル賞の対象となったGFPの研究も、それは知的好奇心からはじまったものであり、いかなる応用も念頭にはなかった研究でありながら、現在では生命科学にはなくてはならない技術の基礎を与えるものと期せずしてなったことは周知の通りである。現在その応用に大きな期待がかかっているiPS(人工多能性幹)細胞という優れた研究成果もまた、膨大な数の地道な基礎研究を基盤として生まれたものであり、そしてその実際的応用にはさらなる基礎研究を要することを知っておかなければならない。
このような素晴らしい研究成果を生み出す源は、多くは研究者個人個人の自由な発想に基づく知的活動であり、これを沸々と実現させるためには、広い裾野に対する安定的な基盤的研究費の配分が不可欠である。これを支えるはずの「運営費交付金」はすでに些少に過ぎるものとなってしまっているうえに、毎年1~2%の削減の憂き目にあっている。「何に役立つのか?」を問い、その成果を(1年から数年という)短期に求めるという競争的外部資金も必要不可欠の制度ではあるが、しかし学術研究の遂行がこの獲得のみによって可能という実情は、本来の姿ではない。このように、基礎科学・基礎医学を担う研究者は、現在、研究費にまわせる安定的・基盤的経費をほとんど持たず、短期競争的外部資金獲得とその評価対策にあくせくし、そのうえに他者のものの評価にも追われ、さらにそのうえに大学・研究機関の運営・評価に対する対応業務にも追い回されるという三重苦に責められているのが実情なのである。その結果、教育にも手が回らなくなって、科学教育・医学教育の荒廃が生みだされるとともに、科学研究者の日常が若者から見て未来の自己像に同一化したくなるほど魅力あるものでなくなってしまっており、ますます優れた人材のリクルートが得られにくい状況が加速している。今こそ、基礎医学研究への安定的・基盤的研究費の投入が必要である。それは、将来の臨床医学研究の成果と医療技術の開発と、そして医学・医療分野の人材育成への必要不可欠な投資であるとも言えるからである。
最後にもう一言、医学の対象はヒトであること、よく発達した大脳を持ち、こころと精神を持ったヒトであること、それが他の生命科学と質を異にしている点であることを強調しておきたい。ヒトのこころ/体の病の問題は、エネルギー問題/地球環境問題や、民族問題/宗教問題とともに、現代の人類に課せられた解決すべき3大課題である。基礎医学/生理学/脳科学の発展のためのしかるべき施策が、将来の臨床医学の発展と人類の未来にきわめて重要であると切実に思うのである。
"綜合臨牀"6月号 今月の論壇 欄より転載