現代「生理学」再考(その2)―人体機能への諸学の糾合―

【2012年03月08日】

生理学研究所 岡田 泰伸

 生理学と物理学はギリシャ時代からの諸学の出発点であった。その後、この人体のみならず生きとし生ける物の“機能を対象とする生物科学の総体としての生理学”から、まず薬理学が分かれ、次に生化学が分かれ、そして生化学の一部と細菌学の大きな部分が発展的合流をして新しい分子生物学が生まれた。その後、日本では神経生理学者をコアにして、脳神経を研究する形態学者、薬理学者、生化学者、分子生物学者達が集まって、それぞれの分野と学会にもう1つの足場を置きつつも、脳科学あるいは神経科学を掲げて活発な学会活動を始め、分子生物学会と肩を並べる隆盛となっているのが現在の状況である。私は以前、このVISION(2009年71巻1号)において、今後目指すべき生理学の方向を論じ、分子生物学と脳科学の大きな発展とそれらの成果を踏まえ、「遺伝子情報」と「脳情報」の二つを“通貨”とした「ヒトの身体と心の機能とメカニズムの解明」を標榜する新しい生理学としての「統合生理学」を提唱した。今回、この立場を敷衍する形で、前回のVISION(2012年74巻1号)で述べた3つの側面の内の「人体の命活動機能の論を扱う問」としての生理学について述べたい。
 地球上での生物の発生と進化は、およそのことであるが40億年前の原始生命の誕生から、20億年前の真核細胞、10億年前の多細胞生物、2億年前の哺乳動物、1億年前の霊長類、500万年前の原人、50万年前の旧人、そして20万年前の新人(ホモ・サピエンス)の出現へと続いてきたと言われている。ここで画期をなすのは、「多細胞生物系」の発生と、「脳」の発生であろう。前回述べた「地球命の原に迫る科」としての生理学は「単細胞系」にもあてはまるより一般的な分子・細胞生理学(一般生理学)としての話であるが、今回の話は「多細胞系」以降の(器官生理学や高次機能生理学にあたる)論となる。多細胞系によって細胞の分業化(すなわち細胞分化)が生じ、これを転機にして次の2つの問題点が生じた。まず第1に、多くの細胞種が子孫への遺伝子情報の伝達を他の特定の細胞種(生殖細胞)にゆだねるという(いわば自己否定的な)“決断”をしたことである。この問題は、現在、ES細胞やiPS細胞に関する研究の対象となっている。第2には、多細胞系総体が一個の「有機体」として振る舞い、機能するためには、それぞれの細胞種(ヒトの場合には60兆個にものぼる細胞群)間において、または多数の細胞が構成する若干数の器官間において、情報を交信しつつお互いを制御するシステムを必要とするようになったことである。その分子・細胞レベルにおける「情報交信・制御系」は細胞自身から放出される細胞間シグナル分子(パラホルモンやサイトカイン)であり、個体レベルにおける「情報交信・制御系」を構成するのは神経とホルモンである。更には、ヒトなどの動物が多集団を形成してその自己繁栄をもたらすための社会というシステムを構成するとき、動物個体間で情報を交信しつつ、お互いを制御するシステムを必要とするようになったことである。この新しい「情報交信・制御系」は、ヒトなどの高等動物では脳であり、それを仲介するのは言語や音楽や絵画などを生みだす脳情報である。多くの疾病が遺伝子、分子、細胞レベルの異常により生ずるばかりでなく、個体レベル「情報交信・制御系」を構成する神経や内分泌の異常でも生ずると共に、社会レベル「情報交信・制御系」を司る脳情報の異常によって生ずることになる。更には、ヒトの脳の論理が外的な物理環境や社会環境にまで拡張している現代社会においては、その「外化した脳」によって逆規定されるが故に疎外された「心」のあり方は、その危うさを増している。特に近年、“IT革命”のめざましい進行によって、脳情報とその異常の重要性は極めて大きなものとなってきた。ヒトを対象とする生理学は、分子、細胞、組織(神経回路/神経-グリアネットワークを含む)、器官(脳を含む)、個体の5つのレベルに加え、社会活動のレベルでの研究(社会脳研究)も包含し、6つのレベルを対象にすべき時代に突入している。
 私達は、1997年に日本学術会議生理学研究連絡委員会の報告として公表した“生理学の動向と展望「生命への統合」”において、ボトムアップ的研究とトップダウン的な研究を統合的に推進する「統合生物学」を打ち出した。分子生物学の飛躍的発展による成果から、地球上のすべての生命が「遺伝子(DNA・RNA)情報」に基づいていることが明らかとなり、生命を構成する殆どの分子が同定された現段階において、これらの分子の役割を細胞やそれより上位のレベルに統合するという時代的要請に、これは応えるものであった。時代は進み、「遺伝子・分子情報」のみならず「脳情報」にも基づかなければならなくなり、その上に研究対象レベルに「社会活動」を加えなければならなくなった現段階においても、ボトムアップ的研究とトップダウン的研究の統合的推進の必要性は変わらないどころか、より増大している。脳ばかりでなくすべての臓器・器官・組織における研究において、上位レベルから分子の役割を、上位レベル機能を一緒に見ながら、その中でリアルタイムに観ることが必要となっている。そして、脳情報の役割をヒトの社会活動という上位レベルの機能と共にリアルタイムで観ることも必要である。これらを実現するためにはライブイメージングがメソドロジーとして最も有効である。そして、ヒトを対象とした生理学研究におけるライブイメージングにおいては、分子間相互作用や細胞間相互作用をも観察対象にしなければならないし、脳と他臓器の間の相互作用をも観察対象としなければならない。すなわち、脳情報という社会レベルにおける「情報交信・制御系」と、神経やホルモンという個体レベルにおける「情報交信・制御系」と、細胞間シグナル分子などの分子・細胞レベルにおける「情報交信・制御系」を、同時的に観る必要がある。生理学をメソドロジー的観点から特徴付けるのは、「リアルタイムに生きたまま定量的に生体機能を観察すること」であり、上記の6レベルのうちのそれぞれのレベル間をつなぐ「階層間連絡ライブイメージング」に、電気生理学的手法を融合させたり、シミュレーションを駆使するなどによって定量性を付与する実験技術の開発が望まれる。これは、生体を生きたまま物理環境の下で時空的(4次元的)に、そしてしかも縦の階層間をも貫いて、定量的に観察するということであり、いわば「定量的5次元ライブイメージング」とも言うべきものである。
生理学の真髄のもう1つは、「生体機能のメカニズムの因果律的解明」であり、そのためには侵襲的な動物実験や、遺伝子改変動物の作成や、ウイルスベクターを介する遺伝子導入や、経頭蓋磁気刺激法(TMS)や、電気刺激や光刺激など、実験中に分子(遺伝子)や脳情報を操作することが不可欠の手段となる。その意味で、オプトジェネティクスは極めて有力な手段を提供するものであり、これに代表されるようなライブイメージング下でも適用可能な侵襲度の低い新しい分子操作法・脳情報操作法の更なる開発が期待される。分子(遺伝子)操作や脳情報操作による因果律的研究において、非侵襲的操作法であればヒトをも対象にすることができるが、侵襲的なものとなればマウスやラットやモルモット、そして場合によっては猫や犬、などの実験動物を対象とせざるを得ない。しかしこれらの実験動物から得られた情報は、往々にしてそのままヒトに適用可能というわけではない。それゆえ、今後の生理学研究においては、これらの実験動物とヒトの間をつなぐものとして霊長類動物の使用が必要となる。そして、実験動物で得られた情報を人間生理学へと統合するためには、実験動物間の“階層”をも超えてつなげていく努力も必要である。
取り出した脳情報のトップダウン的実働性は、因果律的な実証をもたらすものとなるがゆえに、ブレイン・マシン・インターフェイス(BMI)技術の実験生理学からの再評価の必要性が高まることになるだろう。生理学研究へのBMI技術の活用は、工学との統合という新しい局面をもたらすことになる。また、イメージング技術の活用は、形態学との統合という新しい地平を拓くことになる。多細胞間の情報交信・制御系においては、細胞間の形態的関係の時空的変化が必然的に伴われる。特に、1000億個以上のニューロンがあり、それら1つ1つのニューロンが約1万個のシナプスを形成したり、1~5兆個のグリア細胞と機能的・形態的相互作用を動的に示している脳においては、コネクトミクスという形態学との接合による解析が不可欠なものとなるだろう。分子操作や脳情報操作の下で、生体機能変化を観ながら形態的な相互作用を追っていくことのできる、いわば「革新的コネクトミクス」技術の開発が望まれる。また、脳情報をヒトの社会活動の中で位置付けて研究を進めていくためには、人文科学系の学問、特に心理学や経済学、との統合的研究が必要となっている。
 このように、ヒトを対象とする生理学研究においては、分子生物学や脳科学ばかりでなく、形態学や、工学や人文科学分野の成果を取り入れるとともに、これら諸分野との連携研究や共同研究を展開していく必要がある。また、種々の方法論を組み合わせたデータ提示をして、個体レベルでの生理機能に統合させるような仕事でなければ、今やハイインパクトジャーナルに論文を掲載させることができにくい時代となっている。そのためにも、いくつか異なる方法論を持った研究室との共同研究が求められることになる。生理機能に根ざして、どっしり地に足を置き、しっかりとした哲学を持った生理学者こそが、そのような共同研究の中核となることができるし、ならなければならない。そして、近い将来において、生理学は諸学を糾合して、ヒトを物理環境のみならず社会環境の中で把えることによって、ヒトの体・心の機能・メカニズムの解明を行う「統合生理学」とならなければならない。これによって生理学は、懐の深い「人体の命活動機能の論を扱う問」となることができ、その前途は洋々たるものとなるだろう。

[2012年3月 日本生理学雑誌 74巻2号  VISION(25-27ページ)より転載]