2  生体恒常性維持機構と脳神経系情報処理機構の解明

2.1 総括

脳では、末梢で感知した個体内外環境情報を統合・処理し、末梢の個々の組織・臓器の機能を調節することによって、個体恒常性機能を維持している。生理学研究所で上記研究を、分子神経生理学、神経シグナル、脳形態解析、大脳神経回路、生殖・内分泌系発達機構、生体恒常機能発達機構、細胞生理、生態膜等の研究部門で行っている。脳における情報処理機構の基盤である神経回路について、興奮性および抑制性神経細胞、シナプスおよびグリア細胞の機能および形態の一つ一つのエレメントの正確な抽出とその組み合わせによる情報処理機構を電気生理学、免疫組織学、電子顕微鏡さらにはネットワークシミュレーションなどを用いて検討している。

脳機能の作動原理の理解のためには、機能的神経ネットワーク構成素子の高精度な抽出のため、分子・蛋白生物学、形態学、電気生理学の熟練した高度な技術に生物物理学を加えた知識の蓄積が背景にあることが必要であり、生理学研究所では、これらの技術の高度化を行っている。

分子神経生理部門では、神経系の発生・分化に関連する因子の探索、それらの神経発生・分化への関与を検討している。神経幹細胞の分化に関連するglial cells missing 遺伝子やグリア細胞の発生・分化を担うOlig2転写調節因子の役割を検討するとともに、グリアから放出されるグルタミン酸やATPのリアルタイムでのイメージング技術の構築をおこなっている。神経シグナル部門では、各種個体脳機能発現の基盤である神経回路機能の理解を脳薄切片法にパッチクランプ法をはじめとする各種電気生理学的手法を適用し、高精度のシナプスおよびネットワーク情報を抽出するとともに、得られた情報をもとにネットワークシニュレーションを用いて神経回路の情報処理機構を検討している。小脳顆粒細胞―抑制性介在ニューロンのシナプスにおいて、カルシウムチャネルのサブタイプ別の伝達物質放出制御を通常のサイズのシナプスで初めて明らかにした。また、皮質視床回路におけるシナプス機能の可塑的変化を解明するとともにCa2+/カルモジュリン依存性蛋白リン酸化酵素による学習・記憶制御について研究を行っている。生体恒常機能発達機構部門では、発達・障害回復期における回路再編、特に抑制性回路機能の変化を電気生理学および細胞内Cl-濃度調節分子であるK+-Cl-トランスポーター機能変化という観点から研究を行っている。また、生体における回路の変化を多光子励起顕微鏡などを用いて検討し、ミクログリアの正常および障害脳におけるシナプス監視や障害対側脳における代償回路構築について検討している。脳形態解析研究部門では、神経伝達調節メカニズムについて、シナプス内グルタミン酸受容体局在およびシナプス伝達長期増強時における密度の変化について、独自の技術であるレプリカ電顕法を駆使して検討している。さらに、海馬シナプスのAMPA型グルタミン酸受容体サブユニットの密度の左右非対称性について明らかにした。また電気生理学および2光子顕微鏡を用いて、シナプスーグリアの情報伝達について異所性放出によるグリアの機能・形態の制御によってニューロンーグリア複合環境の動的変化の時空間的な解析を行っている。

大脳神経回路部門では、大脳皮質局所神経回路の形態・機能の解析を行っており、GABA作動性ニューロンを発現蛋白・ペプチドによる分類を行った。さらに、大脳皮質に特徴的回路活動である睡眠時徐波の原因である皮質ニューロンのアップ状態とダウン状態の誘導と、2種類のFast spiking GABA作動性ニューロンの活動と強い連関があることを見出した。また、錐体細胞の投射先による活動パターンの分類も行っている。生殖・内分泌系発達機構研究部門では生体恒常性維持の中枢である視床下部による摂食行動やグルコース代謝の機能調節機能について、レプチンやアジポネクチンの関与を検討している。視床下部室傍核細胞におけるAMPKの活性による脂肪酸化調節を介して摂食の嗜好性の変化を引き起こすことや、視床下部オレキシンによる骨格筋グルコース取り込み調節機構、さらには脂肪細胞が分泌するレプチンによる摂食抑制機構について視床下部における新規調節分子CIPPの同定を行った。また、脳由来神経成長因子が末梢脂肪細胞においてTrkB-T1を介して動脈硬化増悪因子(PAI-1)のmRNAを抑制するなど個体における代謝恒常性の解明を行っている。

2.2 今後の展望と問題点

内外環境に対応できる柔らかな脳の理解には、神経ネットワークの活動および構成している一つ一つのエレメントの正確な抽出とその組み合わせによる回路機能および活動領域の統合的理解が重要である。生理学研究所では、神経ネットワークについて、電子顕微鏡による超微細構造や多光子励起顕微鏡による生きた組織における形態解析、シナプス・ネットワーク活動の電気生理学的解析など、脳活動発現の基盤である神経回路活動の理解を多角的に解析しており、各研究室はいずれも国際的にも非常に高い成果を排出している。これは、各研究室の有する国際的にも高い水準の情報抽出および解析技術に裏づけされたものである。

現在、国内・国外において、電気生理学や電子顕微鏡を用いた超微小形態観察をはじめ、各種染色技術などの熟練した研究者は不足している。また、その育成には高度技術の習得ばかりでなく、高い知識を必要とするため長期間を要する。生理学研究所では、分子・細胞・シナプスおよび回路レベルにおける機能・形態の各要素を抽出する高度技術を持つ研究者が集約している。神経ネットワーク研究に不可欠なこれらの技術のわが国における継承・維持と波及のためには、生理学研究所での同分野の更なる推進が必要である。また、シナプスおよび局所回路活動の研究を生体恒常性調節機能の理解へより直接的に還元するために、パッチクランプ法や多光子励起法による微細回路の機能・形態観察の生体への適用技術の開発・高度化を行う必要がある。