6 遺伝子改変動物技術の開発

ポストゲノム時代の到来により、ゲノム情報に基づいた創薬や複雑な生物反応機構の解明に科学がどこまで迫れるかが問われるようになった。その命題に対する強力な研究アプローチとして、特定遺伝子を破壊 (ノックアウト:KO) して個体レベルでその影響を解析する逆遺伝学的手法がある。KO解析には全能性を持つ胚性幹細胞 (ES細胞) が樹立されているマウスが最も重要な研究材料となっているが、ヒトのレッシュナイハン症候群の疾患モデルに相当するHPRT遺伝子のKOマウスが何の症状も示さないなど、マウスのみに依存したKO解析には限界があると指摘されている。よってマウス以外の動物種でKO動物作製技術を確立することは、ヒト疾患モデルや脳高次機能の研究に適切な動物を用いて解析する新たな機会を提供する。

生理学研究所では、トランスジェニックマウスならびにトランスジェニックラット、およびKOマウスの作製サービスを提供しつつ、ラットにおいてKO動物作製技術の開発を試みている。ES細胞株が樹立されていない動物種でのKO個体の作製法として体細胞核移植法が有効な手段の1つなので、まず同法によるクローンラット作出に取り組んだ。その過程で、①ラット排卵卵子は体外に取り出すとMos/MEK/MAPKとp34cdc2 kinaseの不活性化が原因で自発的活性化を起こすこと (Ito et al. 2005, Reproduction)、②除核卵子に体細胞核を注入してもリプログラミングに必要な早期染色体凝集を起さないこと (Ito et al. 2007, Cloning Stem Cells)、③ラット排卵卵子の核とその周辺部にはcyclin Bの分解とMEKの脱リン酸化の両方を抑制する因子が存在すること (Ito et al. 2007, Theriogenology)、など体細胞核移植の成功を左右しうるラット卵子のいくつかの特徴を明らかにした。しかしながら、クローンラット個体を誕生させることには成功しなかった。2003年、フランスの研究チームがレシピエント卵子の細胞周期を完全制御するという我々と同じ着眼点に基づき体細胞クローンラットを誕生させたと報告したが、今日なお、フランスの当事者チームを含めてどこからもその技術の再現性が確認できないままである。

この他、ENU (エチルニトロソウレア) ミュータジェネシスによるKOラット作製システム構築を芹川忠夫教授(京都大学・院・動物実験施設)と共同で目指した。本システムの構築にはKURMA (Kyoto University Rat Mutant Archive) と顕微授精 (ICSI) 技術が不可欠であり、高度なラットの顕微授精技術を保有している生理学研究所がパートナーとして参画を求められたという経緯がある。過大な労力・コストがかかるものの、遺伝子ターゲティングによってKOラットが作製できていないラットで、“KURMA-ICSI”システムはKO個体の作製を可能にした (Mashimo et al. 2008, Nat Genet)。ただし、ENUミュータジェネシス法では変異の導入はあくまでも「ランダム」に起こる。

2006年度からは篠原隆司教授 (京都大学・院・遺伝医学講座) と共同で生殖幹細胞を経由したKOラット作製法の開発を目指した。2003年、同教授らは、個体の遺伝情報を次世代に伝えることができる精子幹細胞の長期間培養法をマウスで確立した。2006年にはGermline Stem Cells (GSCs) と命名されたこの培養細胞の内在性遺伝子 (occludin; 接着分子をコード) を遺伝子トラップ法・相同遺伝子組換え法によって改変し、顕微授精法を併用することによってKOマウスを誕生させている。変異導入ES細胞の胚盤胞へのインジェクション法、変異導入体細胞の核移植法に続く、3つ目のKO動物作製法が確立されたことになる。精子幹細胞からの体外分化誘導系が確立されていないため、まずラットGSCsをヌードマウスの精細管に移植し、正常に半数体細胞に分化することと雄性配偶子として機能することを証明した。種間生殖細胞移植と顕微授精による産仔獲得は絶滅危惧種の保護にも有効な手段になり得るので、この結果を取りまとめた論文 (Shinohara et al. 2006, PNAS) は「マウスを仮親にラットの子誕生」と題して多くのマスメディアに取り上げられることとなった。また、1年以上にわたって継代可能なラットGSCsへレンチウイルスを用いて外来遺伝子を導入し、トランスジェニックラットを作製することにも成功した (Kanatsu-Shinohara et al. 2008, Biol Reprod)。相同組み換えGSCsを選抜するための薬剤選択法や遺伝子トラップによるランダム変異導入法も確立できているので、今後いよいよKOラットの獲得を目指すことになる。さらに、遺伝子トラップ法で変異を導入したGSCsのライブラリ化も進める予定である。

以上のように、生理学研究所ではラットの遺伝子改変動物技術の開発に精力的に取り組んできた。とくに、生殖幹細胞を経由するKOラットの獲得に重点的に取り組んだ結果、その技術開発も最終局面を迎えつつある。ラットで任意の遺伝子を操作する技術が確立できたならば、精神・神経疾患の解析がいっそう進み、分子病態の解明や治療法の開発に貢献できることは確かであろう。