生理学研究所は “分子・細胞レベルから個体レベルへ” を一種のスローガンとして研究を進めてきたが、過去数年間の世界中での研究の進歩には目覚ましいものがあり、分子・細胞レベルから...という枠組から越えた研究が出てきている。例えばこの報告書でも取り上げられているように、個体を越えた、社会的な存在としてのヒトの脳機能が研究の対象となってきていることであり、生理研でも先端的な研究が進められている。また世界的な潮流として、光を用いた計測、操作技術がこれまでの技術的限界を打ち破る手段として広く用いられるようになってきている。さらに計算論的・確率論的手法を駆使して、脳機能をトップダウン的に解析する研究も現れはじめている。(例えば、Naselaris et al., Neuron 63:902-915, 2009.) 生理研の様に規模の小さい研究所では、すべてをカバーすることは出来ないが、所内・所外の共同研究も活用し、枠組みを越えた最先端の研究を進めて行くことが求められている。

本年度も研究所内での研究に関する情報を共有し、所内での共同研究を促進し、さらに特に若手研究者の研究の視野を拡げることを目的として、正月明けの2010年1月6日に第2回 生理学研究所 研究発表会を開催し、各研究部門ならびにセンターからの発表を行った。このような会では通常分子から個体へとプログラムの構成がなされているが、今回は試みとして逆の順序でプログラムを構成した。参加者の全体的な挙動(いなくなってしまう)から判断すると、一般的に分子・細胞レベルの研究者は、システムの研究にも興味を持つが、その逆はなりたたない様である。特に若手の研究者の欠席・退席が目立ったことは残念であった。

1 機能分子の働きとその動作・制御メカニズム

生理研の研究のひとつの柱として、イオンチャネル、トランスポーター、レセプター、センサー、酵素などの機能タンパク質と、それらの分子複合体(超分子)の構造と機能及びその動作・制御メカニズムの解明を目指している。さらに、それらの異常・破綻による病態や細胞死メカニズムの解明に向けて研究を進めている。現在、分子生理研究系(神経機能素子研究部門)、細胞器官研究系(生体膜研究部門、機能協関研究部門、細胞生理研究部門)などにおいてこの分野の研究が活発に進められている。今年度の特筆すべき研究成果としては、以下が挙げられる。

(1) ATP受容体チャネルP2X2のゲート機構の構造学的基盤を解明
神経機能素子研究部門では、これまでに、細胞外ATP によって活性化されるP2X2チャネルが、分子内に膜電位センサー領域を有しないのに、膜電位とATP に依存するゲートを示すことを明らかにした。今年度は、さらに膜電位に依存するゲートステップの一次構造上の分子基盤を明らかにすることを目的として、変異体解析を行った。様々な変異体の解析結果は、ATP受容体チャネルP2X2の膜電位依存的ゲートには、ATP結合部位と、膜貫通部位細胞外側端が複合的に寄与していることを示した。このことから、ATPとATP結合部位の複合体がリンカー部分を経由して膜貫通部位細胞外側端に間接的に作用し、ゲート開口につながる膜電位依存的な構造変化をトリガーすることが示唆された。この成果はJ Physiol誌に発表された。

(2) シナプスの働きを正常に保つ酵素の働きを解明
AMPA型グルタミン酸受容体の動態制御機構はシナプス可塑性の分子基盤をなすと考えられている。生体膜研究部門では、AMPA受容体の足場蛋白質PSD-95の局在を決定するパルミトイル化脂質修飾酵素(DHHC3とDHHC2)に着目してその制御機構を解析した。その結果、DHHC3は細胞体ゴルジ装置に限局し神経活動とは無関係に機能するが、DHHC2は樹状突起内に存在し、神経活動の低下を感知してシナプス膜近傍に移動し、パルミトイル化PSD-95量を増加させることを明らかにした。さらに、この制御系はAMPA受容体の恒常性維持の表現型であるSynaptic scalingに必須であった。この成果はJ Cell Biol 誌に発表された。

(3)細胞容積調節機構とATP放出性アニオンチャネル調節機構の解明
機能協関研究部門では、これまでにアポトーシス時に細胞容積調節機構が障害され、持続的に細胞容積が縮小することを見出していた。今年度は、そのシグナルメカニズムを解析し、上皮細胞収縮時の容積調節には蛋白キナーゼAkt1の活性化が重要な役割を果たしていること、そしてスタウロスポリンによるアポトーシス誘導時にはROS産成とそれに伴うMAPKKキナーゼASK1の活性化が見られ、この活性型ASK1によるAkt1活性化の抑制が細胞容積調節障害の原因となることを明らかにし、その成果を J Biol Chem誌に発表した。また、ストレス時に細胞からATPが放出される機序としてマキシアニオンチャネルの関与をこれまでに証明してきたが、今年度はこのマキシアニオンチャネルの活性化メカニズムにチロシン脱リン酸化が関与していることを明らかにした(Am J Physiol Cell Physiol誌に発表)。

(4) 分子センサーTRPチャネルによる温度受容と細胞伸展刺激受容機構の解明
細胞生理研究部門では、分子センサーTRPイオンチャネルスーパーファミリーに焦点を当て、痛み刺激受容、温度受容、細胞伸展刺激受容等の分子機構の解明を目指している。今年度は表皮ケラチノサイトに発現しているTRPV3, TRPV4が直接、35度近辺の温度を感知してケラチノサイトからATPを放出させ、このATPが神経を刺激して「温かさ」を脳の中枢へと伝えていることを明らかにした(Pflüger Archiv. Eur. J. Physiol誌に発表)。また、膀胱上皮細胞に発現しているTRPV4が膀胱上皮細胞自身の伸展刺激を感知し、ATPを細胞外に放出させ、このATPが神経を刺激して「細胞の膨らみ」を脳の中枢へと伝えていることを明らかにした(J Biol Chem誌に発表)。これらは、非神経細胞から非シナプス結合においてATPを介して神経細胞に情報が伝達されることを示したものである。

以上のように、充実した研究成果が着々と挙げられており、さまざまな生理現象の分子基盤を明らかにしている。今後もそれぞれの研究を発展的に継続することが最も重要であると考えられる。また、各部門においては専門性の高い世界最先端の研究技術(分子細胞生物学、電気生理学、生化学・プロテオミクス、神経解剖学、分子遺伝学)が駆使されている。これらの研究技術は国内外の様々な分野の研究者と広く共有され、多くの共同研究が進行している。このような研究活動が、人体の生命活動の統合的理解につながるものと期待される。