生理学研究所年報 第31巻
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9.感覚刺激・薬物による快・不快情動生成機構とその破綻

2009年10月1日-10月2日
代表・世話人:南 雅文(北海道大学薬学研究院薬理学研究室)
所内対応者:重本隆一(大脳皮質機能研究系脳形態解析研究部門)

(1)
動物に『快』はあるか?
廣中直行(ERATO下條潜在脳プロジェクト)

(2)
嗅覚入力による快・不快情動生成と他感覚入力への影響
小早川高(大阪バイオサイエンス研究所神経機能学部門)

(3)
過食という問題行動の脳基盤:脳内報酬系と味覚情報処理系の機能
八十島安伸(大阪大学人間科学研究科行動生理学研究分野)

(4)
内臓刺激による不快感・痛みのメカニズム
尾崎紀之(金沢大学医薬保健研究域医学系神経分布路形態・形成学分野)

(5)
双極性障害の神経生物学~脳にとって気分とは何か
加藤忠史(理化学研究所脳科学総合研究センター・精神疾患動態研究チーム)

(6)
ストレス脆弱性形成とその修復過程におよぼす養育環境の影響
森信 繁(広島大学医歯薬学総合研究科精神神経医科学)

(7)
情動理解のための文化人類学的基礎
池田光穂(大阪大学コミュニケーションデザイン・センター)

(8)
痛みによる不快情動生成における分界条床核の役割
南 雅文(北海道大学薬学研究院薬理学研究室)

(9)
痛み感受性および鎮痛薬感受性における個人差の遺伝子メカニズム
池田和隆(東京都精神医学総合研究所分子精神医学研究チーム)

(10)
価値表象を実現する前頭葉報酬系の機能的役割:神経美学からの視点
川畑秀明(慶応大学文学部人間関係学系心理学専攻)

(11)
感情についての現代哲学の理論
河野哲也(立教大学文学部教育学科)

(12)
感情制御の発達における破綻と回復
-嘔吐体験がトラウマとなった小学生事例の治療経過から-
大河原美以(東京学芸大学教育心理学講座)

【参加者名】
南 雅文(北海道大学大学院薬学研究院),八十島安伸(大阪大学大学院人間科学研究科),池田和隆(東京都精神医学総合研究所),加藤忠史(理化学研究所脳科学総合研究センター),廣中直行(科学技術振興機構ERATO下條潜在脳機能プロジェクト),田口良太(エーザイ(株)筑波研究所),伊早坂智子(国立精神神経センター),大河原美以(東京学芸大学),尾崎紀之(金沢大学),河野哲也(立教大学),池田光穂(大阪大学コミュニケーションデザイン・センター),高橋 弘(国立精神・神経センター),古屋敷智之(京都大学医学研究科),斎藤顕宜(国立精神神経センター),川畑秀明(慶應義塾大学),高橋宏明(日本たばこ産業株式会社),小早川高(大阪バイオサイエンス研究所),笠井慎也(東京都精神医学総合研究所),森信 繁(広島大学大学院),木村光夫(ライオン株式会社),福土 審(東北大学大学院),杉田 誠(広島大学大学院),片寄洋子(東北大学大学院),加藤総夫(東京慈恵会医科大学),木村佳代(大阪大学),仙波恵美子(和歌山県立医科大学)


【概要】
 セッション1では,先ず,廣中が,『動物に「快」はあるか?』という問いに対し,薬物弁別実験の結果を紹介するとともに,ラット海馬における律動脳波(シータ波)に着目した研究において,麻薬摂取に関連した文脈(環境)との関連から,探索行動における報酬の予期が律動脳波発生と関連しているとの実験結果を示した。次に,小早川は,背側の糸球を除去することにより腐敗物や天敵の匂いに対する先天的な忌避行動が消失することを示した昨年度の発表の研究をさらに推し進め,背側糸球除去マウスでは,種々の社会コミュニケーション行動に異常が見られることを報告した。八十島は,摂食に伴う快情動やその制御破綻としての摂食異常について,「むちゃ喰い障害(binge eating disorder, BED)」のモデルマウス作成とその神経機構の解析について発表した。腹側被蓋野におけるグレリン関連シグナル亢進により誘導される摂食に対する甘味溶液の過剰摂取訓練の影響についての研究成果を報告した。尾崎が,ラット胃のバルーン伸展により内臓痛および不快情動が惹起されることを行動学的解析と筋電図測定により示した。さらに,この動物モデルを用いて,実験的胃潰瘍・胃炎が痛覚を亢進すること,胃潰瘍に伴う痛覚亢進には神経成長因子が関与しているとの研究成果を紹介した。

 セッション2では,先ず,加藤が,『ストレスなどの環境変化に伴うドパミン神経活動変化に際し,これを安定化させる役割を有する神経系,すなわち「気分安定神経系」が存在し,この神経系の進行性機能障害あるいは変性が双極性障害を引き起こす」という「気分安定神経系仮説」を提唱し,神経細胞特的に変異ミトコンドリアDNA合成酵素を発現するトランスジェニックマウスが双極性性障害様の行動変化を示すことを報告した。次に,森信は,母子分離ストレスラットや産褥期うつ病モデルラットに養育された仔ラットが学習性無力を示す,すなわち,うつ病感受性が亢進すること,そのような仔ラットを「豊かな飼育環境(Environmental Enrichment)」で飼育すると,うつ病感受性亢進が緩和されることを報告し,幼少期の不遇な養育環境後に,養育支援による豊かな環境を提供することによって,うつ病発症感受性の亢進が修復される可能性を示した。続いて,池田が,「情動理解のための文化人類学的基礎」とのタイトルで講演を行った。「首狩り」を行う種族における「首狩りと情動」の話を引き合いに出し,神経生理学あるいは脳科学では,情動モデルの普遍化・一般化に向かうが,文化人類学は,逆にその多様性ならびに「とんでもない情動経験」のパターンを異文化のなかにみてその多様化の原因をさぐろうとするものであるとの話は新鮮であった。

 セッション3では,先ず,南が,痛みによる不快情動生成に分界条床核内CRF神経情報伝達が関与しており,CRF受容体の下流に存在するプロテインキナーゼAの活性化が重要であることを報告した。さらに,分界条床核でのグルタミン酸情報伝達も痛みによる不快情動生成に関与していることを示すとともに,結合腕傍核より分界条床核にグルタミン酸神経投射があることを示し,本グルタミン酸神経系が痛みによる不快情動生成に重要な役割を果たしている可能性について言及した。次に,池田は,ヒトにおける痛覚感受性や鎮痛薬感受性と遺伝子多型との関連について,麻薬性鎮痛薬の受容体であるmオピオイド受容体やGタンパク質制御性内向き整流性カリウム(GIRK)チャネルの遺伝子多型が,痛覚感受性や鎮痛薬感受性の個人差に関与することを報告した。さらに,従来の個別遺伝子多型解析手法に加え,現在進行中の網羅的遺伝子多型解析研究の途中経過についても紹介し,網羅的遺伝子多型解析の可能性について言及した。このようなヒトゲノム解析研究手法は,情動研究においても重要な役割を果たすことが期待される。続いて,川畑は,神経科学,神経生理学の視点から美や芸術にアプローチする神経美学(neuroesthetics)の立場から,fMRIによって絵画の美しさの評価中の脳活動を検討した研究をもとに,美の絶対的評価と相対的評価,判断と表彰を切り分け,それらが眼窩前頭皮質から前部帯状回の異なる部位の活動が基礎となっていることを紹介した。河野は,哲学の立場から,感情(あるいは情動)は自然種(自然の中に本来的に分類のための切れ目がすでに入っている種類。例:水素と炭素)ではなく,人工種(人間がある領域に規約的に切れ目を入れているもの。例:成人と未成年)であるため,そもそも感情が何であるかは規約的に社会によって定まること,感情を理性や知性と対比させる図式は誤りで,感情は認知的内容によって種類分けされていること,感情は社会と関連していて,個人の態度である感情は社会的に評価を受けることについて論じた。最後に,大河原は,子どもの心理治療を専門とする臨床心理士の立場から,子どもの様々な心理的問題の根底に「感情制御の発達不全」があり,ネガティヴ感情(負情動)制御の困難が,暴力や攻撃性,不安の身体化としての心身症,不登校,自殺企図などを生じさせることを指摘し,「感情制御の発達不全」がネガティヴ感情に対する脆弱性として顕在化した事例の心理治療のプロセスの紹介を通して,大人から情動を否定される経験が,子どもの心理的健康の破綻を生み出すマクロのプロセスについて論じた。

 本研究会は,「感覚刺激・薬物による快・不快情動生成機構とその破綻」をテーマとし,平成20年11月に行われた第1回目の研究会では,特に,情動の神経機構およびその破綻である精神疾患・情動障害について,情動の神経機構を研究する生理,薬理,分子生物などの基礎研究者とうつ病や不安障害,薬物依存を研究する臨床研究者との討論の場とすべく講演者の人選を行い,興味深い発表と活発な討論が行われた。第2回目である本研究会では,情動研究が発展していくためには,文理融合型の新しい学術領域の創成が必要ではないかとの考えのもと,基礎生物研究者と臨床医学研究者に加え,哲学,文化人類学,実験心理学,臨床教育学の研究者にも講演を依頼し,生物系研究者と人文社会系研究者との討論の場を構築することを試みた。本研究会は,『従来は,異なった学会,あるいは,異なったセッションやシンポジウムで研究成果発表や討論が行われてきたものを,「快・不快情動」をキーワードとして一堂に集め,密度の濃い研究成果発表と討論を行うことにより,本邦における情動研究のレベルを一気に高め,我が国のこの分野での国際貢献に資することを目的とする。』という研究会の目的に十分合致したものであった。突っ込んだ討論を行うため,1演者あたりの持ち時間を40分としたが,それでも討論の時間が不足していたことが残念であった。平成20年度の第1回および本研究会では,ラット・マウスなどの齧歯類を用いた生物学の基礎的研究と,ヒトでの臨床医学的研究および人文社会学的研究の講演であった。今後,線虫やショウジョウバエ,ゼブラフィッシュなどの非哺乳類を用いた研究や齧歯類・ヒト以外の哺乳類を用いた研究を進めている研究者にも講演を依頼し,「情動とはそもそも何であるのか」という情動の起源について討論することを目指した研究会を開催し,本邦における情動研究のレベルアップに貢献したい。

 

(1) 動物に「快」はあるか?

廣中直行(ERATO下條潜在脳プロジェクト)

 快と不快は情動を構成する最も基本的な次元の一つである。味覚刺激に対する反応を調べると,生後まもないヒトの新生児にも快と不快の表出が認められる。快と不快を表出する神経機構は生得的にヒトに備わっていると考えられる。このような神経機構は進化の産物であり,ヒトと動物の情動表出に基本的な連続性があることも,Darwin以来ひろく認められている。

 にもかかわらず,ヒト以外の動物に「快」情動が存在するのかどうかは,まだわかってないと言った方が良い。これは,動物の行動に関する擬人的な説明を避けるという研究者の慎重な態度が一因であろう。しかしその他にも,恐怖や攻撃に比べて「快」を想定できる行動表出の種類が少ないこと,快情動に関与する脳内の責任部位が特定できないことなど,いくつかの理由がある。適切な動物モデルが存在しないことから,快情動の生物学的研究は困難ではあるが,意思決定における情動の役割への注目,精神疾患におけるアンヘドニアの問題への対処など,基礎・臨床両面にわたって快情動を研究する重要性が認識されるようになっている。

 動物の「快」情動の研究において,脳内のいわゆる「報酬系」,すなわち中脳-辺縁系のドパミン神経が主軸になってきたことはまず間違いない。またその研究法として,麻薬や覚醒剤などの依存性薬物が一定の役割を果たしてきたことも確かである。だが,依存性薬物が報酬系に作用するとして,そのとき動物は「快」を感じているのだろうか? それをどのような方法で調べることができるのだろうか? ここでまず,我々が実施してきた「薬物弁別」の実験を紹介し,ニコチンやコカインの効果をラットやサルがどのように自覚したと考えられるかを検討する。生体内の感覚に基づく弁別行動は,現在のところ,動物の「内的」な状態を評価する代表的な方法と言える。次に,麻薬摂取に関連した報酬の予期と探索という側面から,我々がラットの海馬で見出した律動脳波(シータ波)の知見を紹介し,感覚入力から情動価の評価,意思決定を経て運動出力に至るまでの神経活動をネットワークとしてとらえる観点について述べる。情報がネットワークの中をめぐるうちに情動価が生じるという考えはPapez以来いくつか提唱されているが,現在でもその基本構想は妥当であるように思われる。

 動物の行動レベルでは,ある刺激に対する応答的な反応と,その刺激に対する接近・摂取という能動的な反応の両面から「快」に関連する神経活動や生化学的な変化を把握することはできるだろう。しかしながら,どの時点で生じるどのような反応が「快」なのかを特定することはほぼ不可能に近く,動物で想定される「快」とは,我々が日常的に考える「快」との間には乖離がある。だが,それを逆に言えば,実は我々は自分自身の「快」について,あまりよくわかっていないということなのかも知れない。もしそうであるならば,動物の行動や神経回路・生化学的なメカニズムを研究することによって,人間の「快」に関する新たな洞察を得ることもできるだろう。

 

(2) 嗅覚入力による快・不快情動生成と他感覚入力への影響

小早川高(大阪バイオサイエンス研究所神経機能学部門)

 匂い分子は鼻腔の嗅上皮に局在する嗅細胞によって感知され,その情報は脳の嗅球へと伝達される。嗅上皮にはゾーン構造,嗅球にはドメイン構造と呼ばれるそれぞれ空間的に定義される領域分けが存在している。しかし,これらの領域が匂い認識に対して果たす固有の役割は解明されていなかった。嗅上皮の背側ゾーンまたは腹側ゾーンに特異的に発現する遺伝子プロモーターを用いてCre組み換え酵素を発現するノックインマウスと,Cre組み換え酵素が存在する条件下で神経細胞特異的にジフテリア毒素A断片遺伝子を発現するノックインマウスとをかけ合わせる方法で,背側ゾーンまたは腹側ゾーンの嗅細胞が特異的に除去されたミュータントマウス(神経回路の改変マウス)を作り出した。

 背側ゾーンの嗅細胞を除去した神経回路の改変マウス(背側除去マウス)では,腹側ゾーンの嗅細胞が除去されずに残されているので,腐敗物の由来の匂い分子や,天敵から分泌される匂い分子を感知することができたし,これらの匂い分子の微妙な化学構造の違いを区別して関連学習することもできた。ところが,背側除去マウスは野生型マウスと異なり,腐敗物や天敵に由来する匂い分子に対する先天的な忌避行動を全く示さなかった。一方,背側除去マウスであっても,嫌悪学習を行った場合には匂いに対する忌避行動を示した。これに対して,腹側の嗅細胞を除去した神経回路の改変マウス(腹側除去マウス)は,腐敗物の匂いに対する先天的な忌避行動を示した。これらの結果から,マウスの匂いに対する忌避行動は背側の嗅細胞によって先天的に制御されていることが初めて明らかになった。

 匂い分子に対する応答を解析した結果,嗅球の背側ドメインの糸球は腐敗臭や天敵臭などの忌避性の匂い分子のみではなく,マウスの社会コミュニケーション反応に関わることが知られている匂い分子によっても活性化されることが明らかになった。また,背側除去マウスにおいては様々な種類の社会コミュニケーション行動に異常が認められた。例えば,オスの背側除去マウスは縄張りに侵入したオスマウスに対して,野生型マウスのように攻撃行動を示さずに性行動を示した。背側除去マウスであっても性分化は正常であったし,尿の匂いを基に雄と雌とを区別することも可能であった。これらの結果から,背側の嗅細胞によって性行動や攻撃行動に影響を与える情動が先天的に制御されていると考えられた。

 背側除去マウスにおいてはジフテリア毒素遺伝子の発現が胎生期から開始する。従って,背側除去マウスは背側の嗅細胞に由来する様々な種類な情動の入力を失ったという特殊な状況で生育すると考えられる。このような環境下で生育した個体に対して不快刺激を与えた際の脳内のストレス経路の活性化や行動に与える影響を報告する。嗅覚による快・不快の情動の入力が他の感覚入力による情動の生成にも影響を与える可能性を議論する。

 

(3) 過食という問題行動の脳基盤:脳内報酬系と味覚情報処理系の機能

八十島安伸(大阪大学人間科学研究科行動生理学研究分野)

 何をどのくらい食べるのかという問題は,動物やヒトでは生命維持のための根本問題であり,その対処のためにさまざまな脳機能が用いられている。摂食は生得的行動ではあるが,その一方で,何を食べることができるのか(できないのか)ということは学習によって獲得していくことが多い。摂食では,快・不快という情動も喚起され,摂食に関連した情動記憶も形成される。また,摂食には恒常性を維持するための摂食と,嗜好性に基づく摂食がある。後者は,心理学でいうところの情動性摂食とも重なる点が多い。このように,摂食行動は学習,情動,そして動機づけに関連する脳機能が複雑に関わる行動である。近年の傾向として,ストレスや心理的負担に起因した摂食異常や嗜好性食物の食べ過ぎが多くの人で見られ,結果として,食の快に溺れてしまったり,過食をしたりする場合がある。つまり,摂食には,生命維持のための生理的機能がある反面,食べ過ぎや摂食依存というリスクともなり得る一面もある。我々は,摂食に伴う快情動やその情動記憶の制御破綻としての摂食異常の生物学的背景の解明を目指している。自己制御不能な強い摂食衝動による過食,すなわり,短時間で大量の摂食をし,かつ,嘔吐や排泄などの不適切な代償行動を伴わない過食を「むちゃ喰い障害(binge eating disorder, BED)」と呼ぶ。BEDでは生理学的な摂食調節が機能不全に陥り,また,アイスクリーム,ケーキやポテトチップスなどの高カロリーでおいしい食物を大量摂取する。そのため,BED様過剰摂取行動は,嗜好性に基づく摂食が異常亢進することで生じるとも考えられる。BED様過剰摂食行動の背景にある脳基盤を研究するために,動物モデルの作製が必要である。そこで,我々は,マウスを用いて,制限呈示手続きと呼ばれる方法を応用し,甘味溶液をターゲットとする選択的過剰摂取行動の行動モデルを作製中である。この甘味溶液の過剰摂取行動の脳基盤において,脳内報酬系の機能的変化を調べ始めた。特に,腹側被蓋野の機能的変化の物質基盤として,グレリン関連シグナルに着目し,その役割を検討するために,腹側被蓋野へのグレリン注入によって誘導される摂食が甘味溶液の過剰摂取訓練後に影響を受けるかどうかを検討しつつある。また,甘味溶液の過剰摂取行動の形成や維持において,大脳皮質味覚野での高次な味覚情報処理が必要であるのかどうかを調べ始めたので報告したい。

 

(4) 内臓刺激による不快感・痛みのメカニズム

尾崎紀之(金沢大学医薬保健研究域医学系神経分布路形態・形成学分野)

 内臓の痛みは,さまざまな疾患に伴って起こり,患者が医療機関を受診する大きな理由で臨床的に重要であるが,そのメカニズムには不明な点が多い。近年,機能性胃腸症,過敏性腸症候群,間質性膀胱炎など,機能性の痛みを伴う疾患が注目を集めるにつれて,内臓の痛みの研究は急速に増加している。その結果,内臓の痛みは,そのメカニズムが体性痛とはさまざまな点で異なっていることが明らかにされてきた。消化管に代表される内臓痛には,1. 局在性がない,2. 関連痛を伴うことがある,3. 痛みを引き起こす適刺激が皮膚の痛み受容器とは異なり,必ずしも組織損傷を伴わない,などに加え,4. 自律神経系反射や,情動の変化を伴いやすいことがわかってきた。また内臓の痛みは,さまざまなストレスによって修飾されることが報告されている。動物実験においても,ストレスが腸の痛覚過敏を引き起こすことが報告され,機能性胃腸症のモデルとして提唱されている。

 我々は,これまで,情動の変化を伴いやすい内臓痛のメカニズムを明らかにするため,動物を用いた胃の痛覚の評価方法を開発してきた。ラットの胃のバルーン伸展は動物に,痛みあるいは少なくとも不快感を引き起こすことを明らかにし,その程度は筋電図の測定で定量的に評価できることを示してきた。また,このモデルを用いて,実験的胃潰瘍や胃炎では胃の痛覚が亢進し,胃潰瘍,胃炎に伴う胃の痛みのメカニズムの解析に有用であることを示し,とくに,胃潰瘍に伴う胃の痛覚の亢進には神経成長因子が関与していることを明らかにしてきた。

 研究会では,胃の痛覚の評価法,器質性の胃腸症である胃潰瘍や胃炎における痛覚過敏のメカニズムについて,私たちのこれまでのデータを紹介し,さらに私たちが最近行っている機能性胃腸症モデル開発の試みについて紹介したいと考えている。

 

(5) 双極性障害の神経生物学~脳にとって気分とは何か

加藤忠史(理化学研究所脳科学総合研究センター・精神疾患動態研究チーム)

 双極性障害(躁うつ病)は,躁とうつという,両極端な病相(episode)の再発を繰り返すことによって,社会生活の障害を来す疾患である。以前は感情障害と呼ばれていたが,感情の中でも,秒~分単位の事象である一次的情動とは異なり,週~月の単位で持続し,全ての感情の基底となる基本的情動である「気分mood」の障害であることから,うつ病と共に「気分障害」に位置づけられた。古くから統合失調症と並んで二大精神疾患とされてきたが,その原因は未だ完全には解明されていない。

 双極性障害の初発時にはストレスが契機となることも多いが,病相反復と共に病相間隔が短縮し,再発病相ではストレスの意義は小さくなる。年に4回以上の病相を伴う急速交代型になってしまうと,もはや気分安定薬は有効ではなくなってしまう。

 遺伝学研究では,ANK3およびCACNA1Cという,いずれもCa2+イオン輸送に関わる遺伝子との関連が報告されている。脳画像研究では,脳室拡大が一致した所見であるが,脳内の体積減少部位については一致した見解に至っていない。T2強調MRIでは,皮質下高信号領域の増加が一致した所見である。血液細胞では,Ca2+濃度の上昇が報告されている。また,気分安定薬であるリチウムおよびバルプロ酸は,いずれも神経保護作用を有する。

 これらを総合して考えると,双極性障害は,神経細胞レベルでの細胞ストレスに対する脆弱性を伴う疾患と考えられる。我々は,その脆弱性の分子基盤として,ミトコンドリア機能障害および小胞体ストレス反応障害に着目して研究を行っている。

 双極性障害の特徴的な臨床経過と,生物学的研究の成果に基づき,我々は,「気分安定神経系仮説」を提唱した(Kato, Trends in Neuroscience 2008)。ストレスなどの環境変化に伴うドーパミン神経系の活性変化に際し,これを安定化させるような神経系,すなわち「気分安定神経系」が存在し,遺伝的要因に基づく細胞レベルのストレス脆弱性を有する者では,この神経系が進行性に機能障害あるいは変性に至るのではないか,という仮説である。

 我々は,神経細胞特異的に変異ミトコンドリアDNA(mtDNA)合成酵素を発現するトランスジェニックマウスが,双極性障害様の周期的行動変化を示すことを報告したが,現在,この表現型に関わる脳病変を探索するため,変異mtDNA蓄積部位を検索中である。

 このマウスは,明暗(12:12h)条件で,明期初期に行動量が多い特徴を示すが,暗期の光照射で行動量が抑制される,「光マスキング効果」の異常も示した(Kasaharaら,未発表データ)ことから,光マスキング効果に関わる神経系がその原因神経系の候補の一つである可能性が考えられた。もしそうであれば,光などの外部環境に応じて行動量を制御する神経系こそが「気分安定神経系」の実体であり,気分とは,こうした脳機能の主観的体験(クォリア)であると考えることもできよう。

 

(6) ストレス脆弱性形成とその修復過程におよぼす養育環境の影響

森信 繁(広島大学医歯薬学総合研究科精神神経医科学)

 これまでに報告されたレトロスペクティブな疫学研究から,幼少期の不遇な養育環境は成長後のうつ病発症感受性を亢進させるなど,ストレス脆弱性の形成に関与することが報告されている。しかしながらプロスペクティブな研究は極めて少なく,本当に不遇な養育環境が成長後のストレス脆弱性を亢進させるのかについては,その脳内メカニズムも含めてまだまだ現時点では未解明と考えられる。

 このような背景から我々はラットを用いた研究であるが,母子分離(NI)・養育期の明暗調節・産褥期うつ病(PD)モデルによって,仔ラットの成長後のストレス脆弱性が正常飼育群とどのように変化するかを解析している。

 我々のNIを用いた研究結果は,NIを受けて育ったラットは拘束ストレスに対して視床下部―下垂体―副腎皮質(HPA)系のネガティブフィードバック(NF)の障害を示し,低養育環境によるHPA系の機能不全を報告したMcGill大学のMeaneyらの一連の研究成果を支持する所見であった。このような研究結果は,うつ病患者でHPA系のNFの障害が報告されていることから,幼少期の不遇な養育環境はHPA系の脆弱性を介してうつ病発症感受性を亢進させる可能性があると考える。

 具体的にラットうつ病モデルである学習性無力(LH)試験を用いたNI・PDモデルの実験結果でも,NIラットやPDモデルラットに養育された仔ラットが,成長後に有意にLHになりやすいことを示していた。またNIラットやPDモデルラットに養育された仔ラットを,離乳後に豊かな環境(Environmental Enrichment)で飼育すると,うつ病感受性の亢進は修復される結果も得ている。NIモデルによるうつ病発症感受性亢進の脳内機序には,海馬のLIMK1遺伝子発現の障害を介した,樹状突起スパインの形成障害が関与していることを示している。PDモデルによる感受性亢進の機序には,海馬のグルココルチコイド受容体の減少に伴うHPA系の障害が関与していることを示している。

 今回の動物実験結果は,幼少期の不遇な養育環境が,その後のストレス脆弱性亢進を導き,その結果うつ病発症感受性が亢進する可能性を示唆している。その一方で,幼少期の不遇な養育環境後に,養育支援による豊かな環境を提供することによって,うつ病発症感受性の亢進が修復される可能性も示している。このような一連の研究結果は,成長後のストレス反応性形成に関与する要因として,養育環境が重要であることを示唆していると思う。

 

(7) 情動理解のための文化人類学的基礎

池田光穂(大阪大学コミュニケーションデザイン・センター)

 文化人類学者が「情動に関する神経生理学」研究者たちの学術集会に招待された時に,彼/彼女は,生理学者たちの研究発表にどのようにして耳を傾け(できるか否かは不問にして)どのように理解しようと試み,どのようにコメントをおこなおうとするのか。またこの種の「居心地の悪い客」はどのように,その異種[格闘技的]共存の場を平和裡にやりすごそうとするのか,ということが本発表者の最大の関心である。そこで人類学者は〈異民族に関する文化現象を分析しその社会を理解する専門家〉であるという自己定義を表明する以上に,神経生理学者のために「役に立つ」存在であることをアピールしなければならない(でないと次回から呼んでもらえない)。人類学という学問分野が神経生理学者たちに具体的にどういう意味をもつのかを次の3つの観点から論じる。

(1) 人類学者は,自らの専門領域の枠組みのなかで人間の情動をどのような観点から研究するのか?
 人類学における研究対象である異民族は,その表面的差異という特徴も手伝って,当初は「浅い観察」あるいは「薄い記述」でも十分仕事ができる時代があった。しかし人類学研究が異文化間の相互理解に与する可能性が浮上すると,より「深い観察」による「厚い記述」が求められるようになってくる(Geertz 1973)。1980年代「表象の危機」と言われた時期以降,人びとの情動をどのように理解するかの問題は,人類学者の理解の公準としての〈社会的文脈と解釈者主観の尊重〉により複雑な過程のなかでのみ可能であると言われるようになる(Rosaldo 1989)。情動というテーマは客観的記述の邪魔になる雑音ではなく,固有の文化に拘束される人間存在の様式理解の手がかりへと変化したのである。

(2) 人類学者のあつかう「人間の情動」と神経生理学者のあつかう「それ」とは,いかなる共通点と相違点をもつのか?
 情動をあつかう人類学内部での最大の論点は,文化的様式というものがどの程度まで人間の生物学的普遍性に根ざすものなのか,それとも文化的修飾によりほとんど無尽蔵の可塑性をもつのかというということである。前者の論点の極北は神経生理学のそれと完全に一致し,後者の南極はすべての情動は文化で説明できるはずだという極端な文化主義者である(これを「強い文化主義」と呼ぼう)。多くの人類学者は,人間は生物学的基盤をもつので,「全ての人間にあてはまる合意(consensus gentium)」は,人間の普遍性(共通性)を基盤にして後天的に学びうる文化的修飾の部分を守備範囲とする立場をとる(これを「弱い文化主義」と呼ぶ)(Kroeber 1953:516)。パラダイムならびに方法論の違いにより,文化的修飾をバイアスか雑音(よくて変数)とみる傾向をもつ神経生理学者と,その探求を学問上の使命(imperative)に他ならないとする人類学者の違いがあるが,後者の多くは折衷主義者である。なぜ折衷主義者なのかという理由は,人類学がもともと自然科学から派生した学問であり,いまだ客観性への信仰の痕跡を残しているのだと私は考えている。

(3) 神経生理学者は,人類学者の言う「御託」に耳を傾けることで何か役に立つことはあるのか?
 人類学者が,ある社会の人びとの「情動」について研究するとは,その社会の人びとがそのように名付けられた経験を具体的にどのように生きるのかということについて調べることである。これは心や意識について自然科学の観点から探究する研究者にとっては検討に値しない,日常感覚から導き出されてきた常識すなわちフォーク・サイコロジーによる説明に他ならない。おいしい純米焼酎をとり出す技術者にとっての麹粕のようなものだ。ガリレオ『天文対話』のシンプリシオは,研究者は〈言葉〉に酔ってはだめで〈モノ〉に語らせなければならないと忠告した。従って「役に立つことはない」というのが最初の「浅い結論」である。しかし神経生理学者もまた研究論文という〈言葉〉を扱う動物である以上,その言語と概念の使用について,辛辣な人類学者の助言により,より正確に〈モノ〉に語らせることができる。つまり「役に立つこともあるだろう」が最後の「深い結論」になる。

 

(8) 痛みによる不快情動生成における分界条床核の役割

南 雅文(北海道大学薬学研究院薬理学研究室)

 痛みは,侵害刺激が加わった場所とその強さの認知に関わる感覚的成分と侵害刺激受容に伴う不安,嫌悪,恐怖などの負の情動(以下,不快情動と呼ぶ)の生起に関わる情動的成分からなる。痛みによる惹起される不快情動は,私たちを病院へと赴かせる原動力であり,生体警告系としての痛みの生理的役割にとって重要である。しかしながら,慢性疼痛では,痛みにより引き起こされる不安,抑うつ,恐怖などの不快情動が,患者のQOLを著しく低下させるだけでなく,精神疾患あるいは情動障害の引き金ともなり,また,そのような精神状態が痛みをさらに悪化させるという悪循環をも生じさせる。北米での調査によると,慢性的な痛みを有している人では,気分障害,不安症,うつ状態などの精神疾患・情動障害を患う割合が有意に高くなることが示されており,持続的・反復的な痛みによる情動機構の可塑的変化がその根底にあるものと考えられる。しかしながら,慢性疼痛による情動機構の可塑的変化のメカニズムはおろか,痛みによる不快情動生成の神経機構についてもほとんどわかっていないのが現状である。

 我々は,痛みによる不快情動生成機構について,情動との関連が強く示唆されている扁桃体(amygdale),および扁桃体中心核や無名質とともに「extended amygdala」を構成する脳領域である分界条床核に着目して研究を進めている。昨年度の本研究会では,痛みによる不快情動生成における腹側分界条床核内ノルアドレナリン情報伝達の役割,すなわち,腹側分界条床核において痛み刺激によりノルアドレナリン遊離が促進され,このノルアドレナリンによるb受容体-アデニル酸シクラーゼ-PKA系活性化が,痛みによる不快情動生成に重要であることを報告している(J. Neurosci., 28: 7728-7736 (2008))。本口演では,背外側分界条床核におけるCRF受容体を介したcAMP-PKA系活性化が痛みによる不快情動生成に関与していること,さらには,結合腕傍核より分界条床核に投射するグルタミン酸神経も痛みによる不快情動生成に関与している可能性について,私たちの研究成果を紹介し,ご批判を頂戴したい。

 

(9) 痛み感受性および鎮痛薬感受性における個人差の遺伝子メカニズム

池田和隆(東京都精神医学総合研究所分子精神医学研究チーム)

 痛みは危険を伝える重要で原初的な生体防御システムである。従って,痛覚システムの大部分は遺伝子によってプログラムされていると考えられる。また,痛み感受性には個人差があり,この個人差にも遺伝要因が考えられる。一方,過剰な痛みを取り除く鎮痛システムも生体には備えられている。鎮痛システムは鎮痛薬によって活性化されるが,鎮痛薬感受性にも大きな個人差があることが知られている。世界保健機関がん疼痛治療指針の五原則の一つに,「患者ごとに適量を求めること」が挙げられていることからも,鎮痛薬感受性個人差は適切な疼痛治療を難しくする大きな要因であることが推察される。また,鎮痛薬感受性個人差にも遺伝要因が考えられてきた。

 演者らは,鎮痛薬感受性が異なるマウス系統を調査し,その遺伝子メカニズムを解明してきた。これらの研究成果をヒトに応用するために,健常者や鎮痛薬投与患者を対象として,痛覚感受性や鎮痛薬感受性と遺伝子多型との関連を検討した。解析対象遺伝子としては,従来の研究で鎮痛における重要性が指摘されていた,ミューオピオイド受容体(MOP)やそのシグナル伝達経路を担う分子群に注目した。鎮痛薬感受性の調査の際は,疼痛刺激自体の個人差を最小限とするために,画一的な手術を受けた患者を対象とした。その結果,解析した遺伝子の中で,MOPやGタンパク質活性型内向き整流性カリウム(GIRK)チャネルの遺伝子多型(遺伝子配列の違い)が,痛み感受性や鎮痛薬感受性の個人差に関与することが判明した。

 これらの研究の成果はテーラーメイド疼痛治療に道を拓くものであり,近い将来,個々人での鎮痛薬適量を鎮痛薬投与前の遺伝子検査によって予測できるようになる可能性がある。また,痛みと鎮痛の遺伝子メカニズムの解明は,痛みや鎮痛による情動発現のメカニズムの解明に繋がると期待できる。痛みと鎮痛の遺伝子研究は,心の源流の発見に貢献するかもしれない。

 

(10) 価値表象を実現する前頭葉報酬系の機能的役割:
神経美学からの視点

川畑秀明(慶応大学文学部人間関係学系心理学専攻)

 fMRIなど人の脳の活動から精神活動を測定する研究が盛んになるにつれて,神経科学の視点から美や芸術へアプローチがなされるようになってきた。このアプローチは神経美学(neuroesthetics)とよばれ,神経経済学とともに人文社会科学と自然科学との融合研究としての脳科学として近年注目されている。絵画や図形などの視覚刺激に対する視覚的美しさの知覚や選好と関連した脳の活動が調べられ,美を芸術作品や自然などの対象に対して快く感じられたり,感嘆の念を感じられたりするような評価や価値の高い状態(体験)としてとらえ,前頭葉や大脳辺縁系の脳の様々な部位が美の知覚と関係していることが分かるようになってきた。

 喜びや幸福,満足感を得ることは人間性の基盤として重要な主観的感情である。喜びや満足感を得る対象は,金銭的報酬や欲しいものを得たときのような経済(消費)活動の場合もあれば,好きな音楽や絵画を鑑賞したり表現したりする芸術活動の場合もある。

 本発表では,人間が芸術作品について美しさ/醜さを感じるときの脳内基盤や,事物に対する欲求や望ましさの脳内基盤とは何か,を切り口として,価値表象を実現する前頭葉報酬系の機能的役割について報告する。

特に,
(1) fMRIによって絵画の美しさの評価中の脳活動を検討した発表者らの研究をもとに,美の絶対的評価と相対的評価,判断と表象を切り分け,それらが眼窩前頭皮質から前部帯状回の異なる部位の活動が基礎となっていることを紹介する。

(2) 美的評価を伴わない課題において,潜在的な価値表象が脳の活動として見られることを報告する。

(3) 判断する視対象のカテゴリに依存した脳活動と,美や欲望を判断する際のそれぞれの脳活動部位の共通性について明らかにする。また,美と欲望の判断に共通してみられる眼窩前頭皮質と前部帯状回の活動について紹介する。

 

(11) 感情についての現代哲学の理論

河野哲也(立教大学文学部教育学科)

 感情や情動といった言葉は日常用語です。心理学者も生理学者も,一旦,その日常的な意味や定義を受け入れ,それに基づいて研究協力者の行動を規定し,その脳生理学的な対応物を研究します。私の発表では,哲学の立場から,感情とはそもそも何なのかを考えていきたいと思います。

 まず,「感情(あるいは,情動,emotion)」について言えるのは,それが自然種ではなく人工種だということです。自然種とは,自然の中に本来的に分類のための切れ目がすでに入っている種類のものです。たとえば,水素や炭素,トップクォークやアミノ酸などがそうです。これに対して,人工種とは人間がある領域に規約的に切れ目を入れているものです。たとえば,成人や未成年,発展途上国と先進国,知的遅れや優秀児などがそうです。

 感情は後者に属する概念です。感情が何であるかは規約的に社会によって定まります。このことは,概念定義を歴史的に追って行けば明らかになります。発表では,情念(passion)と感情(emotion)と動機(motivation)が歴史的にどのように分岐して,心理学の中で用いられるようになったかを説明いたします。

 もうひとつ感情について指摘すべきは,それを理性(reason)や知性(intellect)と対比させる図式が誤っていることです。感情は一体いくつあるでしょうか。感情はひとつの感覚でしょうか。たとえば,怒りとはある種の興奮状態だと言ってよいでしょうか。あるいは,感情と気分との違いはなんでしょうか。感情の区別が極めて多様で,分類が難しく,単純な感覚に還元できないのは,感情が認知的内容によって区別されるからです。昆虫や魚類には感情は無いように思われるのは,それらの生き物の認知的能力が低いからです。感情を人間の知的側面と対比させ,感情を理性や知性に対立するもの,それらが欠如したものとして扱うことは誤りです。

 最後に指摘すべきは,感情の社会性です。感情は,認知的内容と結びついた一種の態度です。それは単純な感覚ではなく,知的能力に対立するものでもありません。私たちは,欲求(食欲,睡眠欲,性欲など)に対してそれが生じることを社会的に批判しませんし,逆に称賛もしません。しかし,ある種の感情に関しては,私たちは社会的に批判し(嫉妬,憤激,卑下など),別の感情を賞賛したり,擁護したりします(慈愛,博愛,寛恕など)。これは感情が個人の態度であり,それを社会的に評価する文脈があることによります。感情が理性と対立すると言われるとき,そこでは実は個人と社会のあいだに葛藤が生じているのです。この観点から,哲学者のヌスバウムは新しい民主主義社会における感情教育の可能性について示唆しています。こうした感情の社会性とその道徳的な教育との関連性についても,議論してみたいと思います。

(*) 本発表は,科研費研究「心と行為の哲学的分析による倫理的諸概念の解明――モラル・サイコロジーからの接近――」(基盤(B) 21320009)から支援を受けています。

 

(12) 感情制御の発達における破綻と回復
-嘔吐体験がトラウマとなった小学生事例の治療経過から-

大河原美以(東京学芸大学教育心理学講座)

 筆者は,子どもの心理治療を専門とする臨床心理士であり,これまでその臨床実践を研究の対象としてきた。

 教育現場で見られる子どもたちの心の育ちをめぐる問題は,きわめて深刻な事態に陥っている。筆者は,これまでの臨床経験を通して,子どもたちのさまざまな心理的な問題の根底に,「感情制御の発達不全」をみることができることを指摘してきた。不安,恐怖,嫌悪,怒り,悲しみなどのネガティヴ感情を解離させてしまい,その発達のプロセスの中で自己に統合することができないと,その制御に困難をきたし,そのためにさまざまな問題行動や症状を呈することになる。ネガティヴ感情制御の困難は,暴力や攻撃性の暴走,不安の身体化としての心身症,不登校,自殺企図やリストカットなどの自傷行為を生じさせ,さまざまな子どもの心理的問題の源となる。ネガティヴ感情を,自己の中に統合することができない姿は,過剰適応的な「よい子」の自分と,ネガティヴ感情制御困難な「悪い子」の自分との解離を特徴とする自己を構成し,ネガティヴ感情の暴走としての攻撃性と,ネガティヴ感情に対する脆弱性という相補的な方向性をもつ形で症状化する。また,感情の認知・言語化が困難なアレシキサイミア状態を呈することも特徴としてあげられる。

 筆者は,「感情制御の発達不全」に陥る理由として,親(や重要な養育者)が子どもの生理現象としてのネガティヴ感情の表出を否定的に語り,適切な感情語彙を与えないというコミュニケーション不全の問題を指摘し,脳内での感情の情報処理過程におけるダブルバインド状態に注目してきた。筆者が「生理現象としてのネガティヴ感情」と認識してきたものは,まさに「原始感覚と情動」と言い換えることができる。

 本発表では,「感情制御の発達不全」がネガティヴ感情に対する脆弱性として顕在化した事例の心理治療のプロセスの記述を通して,生体防御反応としての原始感覚と情動を,大人から否定される経験が,子どもの心理的健康の破綻を生み出すマクロ(人間の相互作用)レベルでのプロセスを示す。当日は,学校での嘔吐経験がトラウマとなり心身症としての嘔吐が生じた事例(小4男子)と,嘔吐にまつわる強迫症状を呈した事例(小4男子)の2事例の治療援助過程を報告する予定である。

 不快感情を表出することなく,大人の指示に従う子どもを「よい子」とみなす現代社会においては,大人の理想と子どもの生体防御反応は対立し,そのために子どもたちの感情制御の力が育たないという深刻な問題が起こっている。原始感覚と情動の否定が脳の情報処理過程においてどのような影響を与え,子どもの感情制御の発達不全をもたらすのか,脳生理学分野との協働により明らかになることが,いま切実に求められている。

 



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