公開日 2008.11.01

医療と科学の「安心」のために ~医師や科学者からの情報発信の有用性

カテゴリ:研究報告
 生理学研究所・広報展開推進室
 

要旨

 科学技術の進歩に不安を抱いている国民が多い。たとえ客観的に「安全」であっても、人々が「安心」だと感じるかどうかは、個々人の異なる主観による。人々が「安心」できるかどうかは、人々が普段からもっている情報理解力と、その時々に与えられる情報の量のバランスで決定される。したがって、情報を理解して納得し安心してもらうためには、普段からの啓蒙活動が重要である。ここでは、自然科学研究機構・生理学研究所が行っている新しい広報活動を紹介しつつ、安心を与えるための情報提供のあり方について議論する

科学を不安と感じる現代の国民

 最近の世論調査などをみると、脳科学をはじめとする科学技術の進歩を不安に思う人の数が半数近くに及んでいることがわかる。高度成長時代に技術立国を掲げ、国民の世論のバックアップもあって進んできた科学技術の行く末に暗雲が立ちこめている。なぜ現代の国民は科学の進歩を不安に思うようになったのだろうか?そこには、これまで科学者が不得手にしてきた、科学を国民に分かりやすく伝える「情報発信」というキーワードが隠されている。

安心とは何か?

 すでに語り尽くされた感もあるテーマであるが、科学者の立場から情報発信を行っている者として、安心を与えるための情報提供のあり方をまず考えてみたい。

 以前、医学部の学生むけの雑誌に「安全=安心か?」というエッセーを書いたことがある。その結論は、安全は科学的な基準のもと客観的に見てとれるもの、安心とはそれに比べて主観的なもので個々人によってその判断は曖昧である、というものである。つまり、安全と安心は必ずしも一致せず、いくら安全であっても、安心できるかどうかは別の主観的な要素で決まってくる。

 では、「安心」は、どういった要素によって得られるのだろうか?

 次の図を見てほしい(図)。「安心」とその逆の「不安」を決定するには、2つの要素がある。一つは、情報を整理して納得することができるだけの予備知識(ここではあえて「情報理解力」と呼ぶ)と、もう一つは、実際に知りたいと思った情報がどれだけ与えられるか、その情報の量である。このバランスが適正な場合には人々は「安心」だと感じ、逆に、そのバランスが崩れた場合に、「不安」になると考えることができる。

 つまり、安心には、2つの状態がありえる。

 一つは、情報理解力があり、情報量もたくさんある場合、この場合には人は安心できる。もう一つは、皮肉的ではあるが、情報理解力がなく、実際に得られる情報量も少ない場合にも、人は安心できるのである。後者はいわゆる「知らぬが仏」という状態である。逆に、情報理解力がない場合には、情報量が過剰になると、知ったがばっかりに不安に陥ることが十分にありえる。また、情報理解力が十分にある場合には、適切な情報量が与えられなければ、それも不安を導いてしまう。

AK_Anshin2008.png

情報提供の重要性

 つまり、情報発信側から見ると、国民に「安心」を与えるためには、何か大発見や事件事故があったときにだけ詳細な情報を提供することだけが重要なのではなく、情報を理解し整理し納得できるだけの事前の知識と理解力を、定期的に提供しいく啓蒙活動も重要だということになる。

 同じことはメディアの情報発信についても言える。時に、科学者の立場からみると、メディアが過剰に反応したり、エキセントリックな報道になることもあるが、これは、普段から定期的で分かりやすい情報提供とコミュニケーションが欠けていたからであるとみることもできる。たとえば、異常行動で話題になったタミフルのような医薬品の副作用情報や、最近だと採血器具の使いまわし、肝炎問題、科学だとiPS細胞をはじめとする再生医療への過剰な期待とエキセントリックな報道をみると、重要なのは、その時々の詳細な情報提供だけではなく、普段からのきめ細やかな情報提供・啓蒙活動、基礎知識の伝授・コミュニケーションにあるのではないかと考えられるのである。

 つまり、科学にしろ医療にしろ、国民に対して、また、メディアに対して、情報提供を続け、また、情報理解力を高めておくことは両方とも重要なことであり、どちらが欠けても国民に「安心」を与えることはできない。そのためにも、医療従事者や科学者が普段からその知識をわかりやすく国民に伝える努力が、なによりも大切となるのである。

「せいりけん」からの情報発信

 2007年10月に生理学研究所(通称:せいりけん)は、新しく広報室(広報展開推進室)を作り、一般むけの広報活動を本格的に開始した。

 生理研の広報室の一番の特徴は、医師でありかつ脳神経科学研究者でもある筆者が、研究者としてのアイデンティティーを保ったまま広報活動にかかわっていることである。他の多くの研究所や大学においては、広報室が研究現場から離れているのに比べて大きな違いがある。

 研究者が広報を行っているその目的は、科学に対して責任のある立場、研究者の立場から、より研究の中身と重要性を理解した上で情報発信できるということ、である。

 筆者が赴任した後、生理学研究所では、一般広報誌「せいりけんニュース」を2008年1月に創刊。隔月で発行し、地元岡崎市や愛知県内をはじめ全国へ無料で配布している。Webでもこれまでに発行した「せいりけんニュース」を見ることができるので、ご覧いただければ幸いである(生理学研究所のHP http://www.nips.ac.jp/内の特設ページ)。

 さらに、岡崎市保健所と提携し、保健所の施設として新たに設けられた「岡崎げんき館」で年に4-5回の市民講座を行うこととなった。2008年4月からはじまったこの講座シリーズは、「からだの科学 -医学研究最前線」と題され、これまでに、温度を感じる仕組みや、脳の記憶の仕組み、さらに、脳と「ほめられる」こととの関連など最新の研究成果を分かりやすく伝える一般講座となっている。また、講演だけでなく、テーマにあわせて保健所の様々なスペシャリストによる実践講座を開催することで、最先端の医学生理学研究を身近に感じてもらう努力をしている(たとえば、トウガラシとミントの味覚受容体が「温度」を感じることもできるという講演の際には、栄養士によるトウガラシとミントをつかったレシピ紹介)。おかげさまで、2008年8月時点までに3回の講座を開催し、毎回満員御礼の200名超の一般市民の方が訪れる人気講座に発展した。

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 このように、生理学研究所では、科学者の立場から、国民に対して情報発信を続けている。このことを通じて、国民の科学リテラシーの向上を図り、情報量と情報理解力のバランスの取れた啓蒙を心がけ、「科学」に安心感を持ってもらいたいと考えている。今後の活動にご期待いただきたい。

掲載誌

小泉 周 (著)
現代医学, 56(2) : 415-417, 2008.