公開日 2011.04.27

科学者から国民への情報発信の意義と方法

カテゴリ:研究報告
 生理学研究所・広報展開推進室
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※本文章は、小泉 周 著「科学者から国民への情報発信の意義と方法」(日本農芸化学会 「化学と生物」バイオサイエンススコープ欄 2011年4月号)をもとに、加筆改編したものです。

1.科学技術の発展に不安を感じる現代の国民

 第2次世界大戦敗戦後、日本は、多くの国民がその日の食べ物にも困窮するような荒廃した社会のなかにあった。そこから立ち上がった日本の戦後の復興、経済の高度成長を支え、かっこつきではあるが「豊かな社会」を実現した主要な要因のひとつは科学技術であったことに異論はないだろう。

経済成長期の人びとの科学技術の発展に対する信頼は、ゆるぎないようにみえた。21世紀には、新婚旅行はロケットで月面散歩し、ニューヨークと東京間はわずか数時間でいったりきたり、さらには、癌をはじめとする多くの病気も予防や治療が劇的に進み、生涯健康に過ごすことができるなどの夢が語られることもあった。

しかし、これは幻想にすぎず、物質的な豊かさ、効率のみを追求しがちな科学技術の発展に伴う「負」の面も次第にあきらかになってきた。

かつてのような高度経済成長が望めない現代では、科学技術を取り巻く環境は大きく変わっている。200712月の内閣府による「科学技術と社会に関する世論調査」によれば、科学技術の発展により社会や生活の安全性が向上したと考える人が5割を超えている一方で、「科学技術が悪用されたり,あやまって使われたりする危険性が増える」と考える国民が8割近くに上っている。とくに分野別には、遺伝子改変技術や環境問題に関する不安が大きい。また、「今後の科学技術の発展は,物質の豊かさだけでなく,心の豊かさも実現するものであるべきである」という意見について,9割近い国民が賛成している。

 そして何よりも2011311日の東北地方太平洋沖地震と津波による深刻な原発事故は、国民に、「科学技術は必ずしも万全でない」「不安だ」ということを改めて認識させることとなった。

 現実に、国民の多くは、科学技術発展の現実的な負の面や不安にも直面しており、「科学技術の発展が必ずしも国民生活を豊かに幸せにするわけではない」ということも十分に認識される時代となっている。

 

2.「科学に対する不安」を取り除くために出来ること 

― 普段からのコミュニケーションが大切 -

では、現代の科学者は、この現実をどう考えればよいだろうか?

 まず、ここでは、そもそも「安心」とは何であるのか、考えてみたい。すでに多くのところで語られていることであるが、「安全≠安心」は議論の余地のないところだろう。安全は科学的なエビデンス(証拠)と基準のもと客観的に見てとれるものであり、安心とはそれに比べて主観的なもので個々人によってその判断は曖昧である。つまり、安全と安心は必ずしも一致せず、いくら安全であっても、安心できるかどうかは別の主観的な要素で決まってくる。

安心とは、得たいと思う情報の量と、その情報を正しく理解することができる情報理解力のバランスで決定される。両者のバランスがとれていれば、安心を得ることができるのであるが、そのバランスが一度崩れると、不安となるのである。

つまり、安心には、二つの状態がありえる。一つは、情報理解力があり、情報量もたくさんある場合である。もう一つは、皮肉ではあるが、情報理解力が十分でない場合には、実際に得られる情報量も少ないと人は安心できるのである。逆に、情報理解力が十分にある場合には、適切な情報量が与えられなければ不安となるし、また、情報理解力がないにもかかわらず情報量が過剰になると、知ったがばかりに不安に陥ることが十分にありえる。

 

<図1 安心と不安を作る2つの要素>

Fig1_Amane_Chem.png

図1 安心と不安を作る2つの要素:情報量と情報理解力のバランスで安心と不安が決まる。

つまり、ここで強調したいのは、「安心」を与えるためには、大発見や事件事故が起こったときにだけ詳細な情報提供をするのではなく、情報を理解し整理し納得できるだけの事前の知識と理解力を、定期的に提供しいくコミュニケーションが重要であるということとなる。そのためにも、科学者には、普段から国民の「なぜ?」「なに?」に答える分かりやすい啓蒙活動や対話型の科学コミュニケーションの推進が、求められているのである。

  

3.科学≠科学技術

 そもそも、ここで科学者として考え直す必要があるのは、科学=科学技術なのだろうか、という定義そのものである。そこには、イノベーションを生む科学技術こそが科学であり、それが国民の幸福を生みだすというような「勘違い」があるのではないだろうか。

そうではなく、現代社会においては、科学技術偏重ではないピュアな「科学」に対して真摯に向き合い議論することがより必要なことだと思う。

 そもそも一人一人の研究者は、かつて科学者を志したとき、科学に対して何を感じ、何を思っていただろうか?

「どうしてこうなるのだろう?」

「どうやったらできるだろう?」

あふれ出る純粋な疑問と、まだ誰も知らなかったことを知りたいと願う知的好奇心で満ち溢れていたのではないだろうか?科学に二番はありえないというのは、そうした「先人の到達してないことをもっと知りたい」という知的好奇心に答えることが科学の使命だからである。そういう意味で、科学とは人類共通のパッションであり、欲求であり、ロマンなのである。科学技術の発展が、人びとの生活の向上に役立ってきたのは、そのひとつの結果にすぎない。

 実際に、研究の現場を出て、出前授業などを通じて小・中学校や高等学校の生徒の声を直接聞いてみると、子供たちが科学に対して純粋なロマンを感じてくれていることがよくわかる。

「それってどうして?」「どうやったら分かるの?」「どうしてそうなるの?」など、など、純粋な疑問に目を輝かせている。

 もちろん、科学者が科学技術を生みだし、新たなイノベーションを生み出すことも期待されていることは間違いない。しかし、いま、科学者に求められているのは「科学」を誠実に伝え、国民の知的好奇心やロマンに答える科学コミュニケーションなのである。それには、当然、科学技術発展に伴う「負」の部分の科学(研究)もふくまれるだろう。「ほんとうにこれでいいの?」という疑問である。

そうした科学者としての誠意を真摯に伝えることによってこそ、科学が、目先の成果だけではないより広い意味での人びとの生活の向上、社会の発展につながるのではないだろうか。

 

4.科学者の説明責任

 つまり、科学とは科学技術というテクニックの伝授やプロダクトの生産だけではない。科学者が自分自身のピュアな「科学」に対する熱い思いや情熱、誠実な気持ちを国民に伝えることが大切である。

 そして、また、科学者は科学を国民に伝える説明責任を有している。昨今、高額な税金を使って行われる科学に対しての国民の目は厳しく、目に見える形での成果還元や説明を求められている。こうした説明やら早急な成果還元などは、科学者にとっては極めて不得手とするところで、実際、せちがらい世の中と感じている研究者も多いことだろう。

その一方で、前述したとおり、国民の求めているものは、必ずしもそうした直接的な成果還元ではなく、科学の可能性や知的好奇心に答える情熱やロマン、それがもたらすさまざまな意味での豊かさであることも事実である。そうした国民と科学者のコミュニケーションこそが、国民の求めている「説明責任」なのである。

 ちなみに、欧米などの海外ではそれほど科学者の説明責任が問われていないように思う。これについては、今回のメイントピックではないので詳細は論じないが、二つの理由があるだろう。一つは、研究費の出所が種々様々であり、日本ほど税金に多く依存した研究費の構造ではないということ、またもう一つは、そもそも歴史的に欧米では科学は科学技術と同義語ではないことが当然で、国民の多くは科学の細かな内容は理解できないまでも、科学技術でない「科学」の楽しみやその意義、また知的探究心そのものの大切さを理解してくれている人が多くいることが挙げられる。

 正直、とくに日本の科学者は、社会との関わりを不得手と考えている人が多い。かつて科学者は象牙の塔の中で、社会とは隔絶され、自分の好きな科学のみを追求していればそれでよかった。しかし、前述のように科学者の説明責任が求められる時代のなかで、科学者は社会に対してきちんと向き合わなければならなくなっている。そうした現代社会の中で科学者のアイデンティティーとその誠実さが改めて問われており、それを明確にしたうえで、説明責任を果たす必要がある。

 

5.科学者による科学 “ミス”コミュニケーションの例

 では、不慣れな科学者が突然社会と向き合い、科学を国民に語るときに、何か問題はおこらないのだろうか?

 実際、科学者のコミュニケーションの苦手意識がかえって、科学に対する“ミス”コミュニケーションを生みだしていることもある。ここでは、科学者が気をつけるべきポイントとして、いくつか良くある科学者による科学“ミス”コミュニケーションの例を示してみたい。

 

(1)エラぶる研究者

 講演会などで研究者が自慢げに、専門用語や業績をならびたてて、自分の知識をひけらがす―――これもよくある科学者の講演会の光景ではあるが、こうしたエラぶる研究者は、国民に対しての円滑な科学コミュニケーションを妨げる典型的な例である。

そもそも、科学コミュニケーションには、欠如モデル、と、対話モデルという2つのアプローチの仕方が知られている。欠如モデルは、「国民には科学や科学技術の知識が欠如しているから、科学者が教えてあげなければ、正しい判断もできない」というものである。要は上から目線で「知識がなく正しい判断もできない国民に知識を教えてやる」といった一方向的な態度のことである。

こうしたスタンスを取りがちな科学者は、「科学」を伝えるというと、自分の持っている専門的な技術や知識を伝えることであると誤解していることも多い。これはかえって、国民の反発を招き、不信感すら生みだす結果となる。

その一方で、対話モデルは、「科学者と国民がもっている科学に対する考えや知識は質的に全く異なるものであり、それぞれのもつ世界観の中で科学が理解されているから、対等な話し合いの中で、お互いの世界観を認識し、知識や考えを共有していく努力をするべきである」というアプローチの姿勢のことである。最近では、科学コミュニケーションを円滑に進める方法として、この対話モデルは重視されている。その最も成功している例としては、サイエンスカフェのような対話型のイベントである。

たしかに、欠如モデルが必ずしも間違いというわけではなく、正しい科学的知識を伝授するということも科学コミュニケーションにおいて重要な役割であることも否定できない。

しかし、一方的に上から目線で科学をお仕着せするだけでは、科学を円滑に伝えることはできない。科学者がコミュニケーションを行うときには、一方的でお仕着せにならないよう注意しながら、常に「対話」を念頭におくことが求められる。

 

(2)不誠実な研究者

 ピアレビュー(査読)を通じて、研究者同士が精査している科学的エビデンス(証拠)。科学者がこれを重んじるのは、科学者として当然の責務であり、科学者としてのアイデンティティーであり拠り所となる。そうした科学的エビデンスがあるにもかかわらず、科学者が自分自身の独断と偏見に基づいて発言を繰り返すことがあり、リップサービスのつもりかもしれないが、これが科学への信頼を損なうことになる。

 脳科学でよく話題となることであるが、根拠のない脳科学神話が巷にはびこっている。たとえば、よく宣伝で「英語教育や音楽教育は、幼児からの早期教育が重要!」などという文句を耳にする。また、それに対して、一部の科学者たちが、あたかも科学的エビデンスがあるかのごとく「お墨付き」を与えるという構図が出来あがってしまっている。

また、逆に、科学的エビデンスが得られていないものに対して、または、それが示せないにもかかわらず、たとえば、「脳を訓練すると痴ほう症が改善される」などと、あたかも科学で裏付けがされているかのごとく科学者がお墨付きをあたえてしまうこともある。

 こうした科学者の態度は、科学者が科学的エビデンスを軽視するということであり、科学者としての自分自身のアイデンティティーをも否定することになる。

一人一人の科学者はそういう意味で、科学や科学的エビデンスに対して真摯であるべきである。

つまり、現代社会においては、科学者の誠実さが厳しく問われているのである。

 

 

6.生理学研究所の広報の具体例

200710月に大学共同利用機関法人である自然科学研究機構・生理学研究所(通称:せいりけん)は、新しく広報室(広報展開推進室)を作り、一般向けの広報活動を本格的に開始した。
 生理研の広報室の一番の特徴は、医師でありかつ脳神経科学研究者でもある筆者が、研究者としてのアイデンティティーを保ったまま広報活動にかかわっていることである。他の研究所や大学においては、広報室が研究現場から離れている場合と比べると、そこに大きな違いがある。研究者が広報を行っているその目的は、科学に対して責任のある立場、研究者の立場から、より研究の中身と重要性を理解した上で情報発信できるということ、である。

 広報展開推進室の設立以来、生理学研究所では、市民講座(せいりけん市民講座)の開催、広報誌(せいりけんニュース)の発行、プレスリリース、小中高校生に対する教育アウトリーチを中心的な事業にすえ、広報アウトリーチを積極的に展開している。どれも広がりと新たな展開を見せているところであるが、その中から他の研究機関にはみられない特徴的なものとして、プレスリリース文作成の考え方と漫画の活用、小中高校における理科教材開発について説明したい。

 

(1)国民に語りかけるプレスリリース文の作成

 多くの大学や研究機関のプレスリリースでは、なぜか先ほどの欠如モデルのような上から目線の「教えてやる」といったプレスリリース文を良く目にする。多くの専門用語を羅列し、さらに専門用語を注釈で説明をつけるというオマケつきで、まるで高度な専門の教科書を読んでいるかのような錯覚を覚える。そんな専門的なプレスリリースをすることで、「いったい誰に何を伝えたいのか?」という疑問さえわいてくる。

 まずそもそも、国民に向けた情報発信として、プレスリリースを「文章」として分かりやすく作成し、様々なメディアを通じて公開することはとても重要なことである。科学者が科学の内容を口頭で伝えるだけではなく、文章をしっかり練っていくそのプロセスそのものも、国民と同じ立場で科学を論じる科学コミュニケーションの手法として、とても大切なことだ。実際には、記者会見や記者のインタビューなど、手持ちの資料もなく、出たとこ勝負で話しをしてしまう研究者もいる。そういう場合、口頭での発言は、見方や聞き方によって多くの異なるニュアンスを含んでおり、その受け止め方は十人十色である。

研究者が、準備不足から不用意な発言をしたのち、「マスコミが勝手に解釈して流した」と言い訳することがあるが、世間から見れば研究者としての見識も問われることをよく念頭においておくべきである。また、後日、口頭での「言った」「言わない」は、不毛な議論だ。

では、どうすれば良いのか?ここで強調したいことは、記者会見や記者のインタビューを受ける際には、必ず、国民へのメッセージとして「言えること」と「言えないこと」を明確にした練りに練った文章を用意し、それをもとにプレスリリース文として様々なメディアを通じて発表し残すことが重要だということである。

 生理学研究所の広報からプレスリリースをする際には、情報の最終的な受け手である国民や社会を念頭においた文章を作る。プレスリリースは、たしかにメディアの目に触れ、そこでいったん解釈され、読者に仲介されはするが、あくまでその情報の最終的な受け手は、国民であることを忘れてはならない。プレスリリースの文章を書くときには、それを手にする国民一般、小中高校生からお年寄りまでを目に浮かべ、彼らに語りかけるように正確で分かりやすい記述にこころがけることが重要である。

生理研広報では、まず、専門的な内容について、論文のゲラと日本語での要旨をまとめたものを研究者側から提出してもらう。その際に研究者から提出してもらうポイントは、1.当該研究は何が目的だったのか?2.何が新しいのか?3.何が意義なのか?である。そして、その上で、文章として矛盾なく、科学的にも正確な文章として練り上げていく。一度出来た文章は、何度も研究者と広報室の筆者の間でやりとりする。その際には、専門用語を排除し、できるだけ分かりやすく言い換える。専門用語を残したまま、それに注釈をつけるということはまずしない。またその過程で、当該研究者以外にもコメントを求め、専門的知識がなくても分かりやすいプレスリリース文の作成を目指している。

要は、プレスリリースは知識を伝授する手段ではなく、新しい成果を国民と共有する媒体なのである。そのためにも、マスコミが翻訳してくれるなどと他力本願な期待はせず、「そのまま新聞に載っていてもおかしくない文章」をプレスリリース文として作るのである。新聞記事には、専門用語の羅列もなければ、それに一々注釈もない。そういうプレスリリースを目指している。実際にはプレスリリース文を練り上げる過程には最低でも1週間の時間をかけ、少なくとも5人以上の専門家・非専門家の目を通して書いている。

 

(2)漫画の活用

 そうした文章でプレスリリースを用意するとき、分かりやすいプレスリリースにするための具体的な手段として、「漫画」の活用がある。

 漫画は、日本が誇る文化である。プレスリリースの内容を絵にするだけでも非常に分かりやすくなるが、中でも漫画は、単なる写実的な“絵”ではなく、1枚の絵の中に、ストーリーや因果関係を入れて描きこむことができる。

 生理学研究所では、生理研出身の研究者である鯉田孝和 准教授(現・豊橋技術科学大学)や、理系漫画家である“はやのん”さん(http://www.hayanon.jp/)に漫画の執筆を依頼。このお二人ともに、彼ら自身が研究者である(あった)こともあり、専門性は異なるものの、科学者としての視点で、しかも分かりやすく漫画でイメージ図を作ってくれる。言葉ではどうしても難しくなりがちな内容も、絵や漫画とすることで、わかりやすく、また親しみやすく理解してもらうことができる。

 ここで二つの例を示そう。一つは、生理学研究所で開発された位相差電子顕微鏡を用いることで、自然な姿のウイルスの中の細かい構造をのぞくことに成功したという論文の説明。もうひとつは、脳の中のバソプレシン神経が、お互いにバソプレシンという脳内ホルモンをかけ合うことで、水に近く体液が薄まった条件下でも、細胞が膨らんでしまうのを防いでいるという内容である(英文プレス)。両者ともに、研究者である鯉田准教授やはやのんさんが科学的な内容を理解した上で漫画を書いてくれていることもあり、一つの絵の中に、論文の発見や新しいポイント、その因果関係が分かりやすく表現されていることが分かる。

 

<図2 位相差電子顕微鏡の原理の説明>

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図2 位相差電子顕微鏡の原理の説明位相差法を取り入れた新しい位相差電子顕微鏡によって、自然な姿のウイルスの中の構造を明瞭に観察することができる(永山國昭教授開発)。その意義を明らかにしたイメージ図。(鯉田孝和准教授 作画)



<図3 バソプレシン神経による細胞の大きさ調節>

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図3 バソプレシン神経による細胞の大きさ調節脳の中のバソプレシンを放出する神経細胞(バソプレシン神経)が、そのバソプレシンによって細胞の大きさの調節を行っている説明図(理系漫画家 はやのん 作画、英語版)岡田泰伸生理研所長らの研究成果(Science Signaling, 2011)。


 

(3)小中高校生の授業で活用してもらうための教材開発

 前述したように、国民の科学への不安を取り除くためには、何か大発見や事件事故が起こったときにだけ詳細な情報を提供するだけでなく、普段から情報を理解し納得してもらうための啓蒙活動を行うことがとても重要なことである。そこでキーポイントになるのが、小中高等学校のような教育機関での科学コミュニケーションであるが、個々の研究者が実際に出向いていく出前授業や体験学習では、その広がりに限界がある。

そこで、生理学研究所では、小中高等学校の理科教育のための教材開発にも力を入れている。教材や授業プログラムを理科の教員と一緒になって開発することにより、単に知識を伝えるだけでない、波及効果を得ることができる。

その一例として、生理学研究所で開発した簡易筋電位検知装置「マッスルセンサー」を紹介したい。そもそも医学生理学や脳神経科学の基本は、脳や体を動かす電気信号を扱う電気生理学である。電気生理と言うと多くの人は(研究者であっても分野が違えば)難しいものと思うものであるが、実は、その基本的な知識や仕組みについては、中学校の理科第二分野で学習する内容である。しかし、実際の教科書では、脳から出た電気信号が脊髄を伝わり運動神経を通って筋肉にまで到達することを図解しながら示しているものの、電気信号がどういったものであるのか、体験的に理解させることができていなかった。

そこで、生理学研究所では、筋肉を動かす電気信号を捉え、それによって定性的に豆電球を光らせたり、電子ブザーをならして音を出したりすることができる簡易筋電位検知装置「マッスルセンサー」を開発した(http://www.nips.ac.jp/nipsquare/academy/musclesensor/)。これを理科教材会社を通じて販売する一方、理科教員に対する研修会の開催や、マッスルセンサーをつかった理科の出前授業を、小・中・高等学校に出向いて行っている。

 理科に対するすそ野を広げ、科学を理解してもらうには、まず、小中高等学校の理科の教員に、理科の楽しさ、面白さを理解してもらいたいと考えている。そうした理科教育を通じて、科学の面白さやその意義を小中高校生に伝えることが、一番の啓蒙方法である。

 

7.科学者が自ら国民に科学を伝える意義

 子供のころワクワクしながら見たアメリカのテレビドラマ「スタートレック」のはじまりの決まり文句”see where no one has gone before”。これこそ人類の欲求の一つである知的好奇心である。また我々の世代であれば、機動戦士ガンダム。宇宙へのロマンを感じるこのアニメ作品は、今や伝説であり、お台場や東静岡にガンダムの模型がただ立っているだけで多くの人が見に行きたくなるロマンや情熱の対象となっている。

科学の意義は、科学技術を進歩させイノベーションをすすめるだけでなく、こうした人類の知的好奇心に答え、その可能性を広げていくことであるとの思いを改めて感じる。そういう意味でも、科学に二番はあり得ない。

 昨今、政府が高額な研究費を取得している研究者を中心とした「出前授業」についての義務化の方針を決めて以来、科学者の間に戸惑いが広がっている。

義務化という形で行われることについては、科学者の間で異論の多いところではあるだろうが、ただ、少なくとも言えることは、野球やサッカーも、一流の野球選手やサッカー選手が、野球教室やサッカー教室を通じて実際に子どもたちと接してこそ、彼らの情熱やロマンを子どもたちに伝えることができる。実際に頂点に立つ者だからこそ、伝えられることがある。科学者も、「科学技術」だけではなく「科学」というロマンや情熱・知的探究心を追い求めている存在だと自負するのであれば、科学者という自分の殻に閉じこもらず、時に書を捨てて街に出て、小中高校生や国民の声を聞き対話することも良いものだと思う。

 

参考文献

1)小泉周:「医療と科学の「安心」のために ~医師や科学者からの情報発信の有用性」, 現代医学(愛知県医師会)、2008, 56(2) : 415-417, 2008.

2)小泉周:「科学者が科学広報を行う意義」, サイエンスポータル(独立行政法人 科学技術振興機構),2009, http://scienceportal.jp/HotTopics/opinion/126.html