地球の裏側で感じたノーベル化学賞の余震

生理学研究所・細胞器官研究系 岡田泰伸
(せいりけんニュース No. 1900-1902より転載)

 ノーベル化学賞の発表直後に新聞社から、二人のアメリカ人の受賞が決まったが、これらの名はどのような発音で読むのか?  どのような人で、どのような仕事か? という電話があった。私は当然二人の名に心覚えはあるが「化学賞」とは腑に落ちず、 受賞理由を聞いたところ、やはりK+チャネルと水チャネル(アクアポリン:AQP)とのことであり、「生理学医学賞」でない ことに驚いた。K+チャネルのロッド(Roderic MacKinnon)との共同受賞なら、水チャネルも三次元構造解析がその大きな理由で あろうから、ピーター(Peter Agre)のみならず藤吉好則さん(京大理教授)もという思いがし、記者にもそう告げた。しかし、 いずれにせよこのような基礎的研究が受賞対象になったことは大変嬉しく、特に私達のフィールドに大きな励ましを与えた。
 ノーベル化学賞発表による精神的興奮と、前日のソフトボール大会の肉体的余熱のさめぬ間に、私は南アメリカへの約2週間の 旅についた。ブラジルのリオデジャネイロで行われた第5回南アメリカ生物物理学会の2日目の総会講演と、チリのバルディビア Valdiviaにある科学研究センター(CECS: Centro de Estudio Cientificos)での講義を2回行うためであるが、この旅はノーベル 化学賞の余震の直中で持たれることになった。それは、リオでの大会3日目の総会講演は計らずも当のピーターが行い、CECSの バイオサイエンス部門のディレクターはロッドに仕事の近いラモン(Ramon Latorre)が務めているからである。

1. ピーターとその講演
 ピーターはその日、スリムな体にライトブルーのワイシャツとズボンの上に、濃紺のジャケットとネクタイで現れて、「これは ポスト・ノーベル賞の最初の講演である」という言葉で切り出した。そして、AQP1の発見のいきさつから、すべてのイソフォームに 関する知見の要約と疾患との関係をユーモアも交えて明解に述べた。この話には、Prestonをはじめとする極めて多数で多国から の共同研究者の名が出版論文や顔写真による紹介として挿入された。写真付の紹介には当然のこととして藤吉さん(現生理研電顕 室委員)が含まれていた。その他、村田和義さん(元超微小形態部門助手)、挾間章博さん(元機能協関部門助手、元統合バイオ 助教授)らの名も見られた。AQPのイソフォームの中で最大の花形のAQP2については、その発見を行った東医歯大丸茂研の佐々木 成、伏見清秀両博士らの仕事の紹介がやや稀薄に感じられたが、総じてほぼ公平に紹介された。そしてピーター自身の貢献に ついては極めて謙虚に語られたことが特に印象的であった。その講演は次のカハール(Ramon y Cajal:スペインの生んだ偉大な 神経解剖学者、1906年にゴルジと共にノーベル生理学医学賞受賞)の言葉でしめくくられた:
There are no small problems. Problems that appear small are large problems that are not understood.
 その夜はピーターと学会オーガナイザー、友人たちが三々五々にブラジル音楽(サンバやボサノバ)のライブ・パブに集い、 自然とお祝いの会となった。途中でステージから司会者がノーベル受賞者のピーターの存在を紹介したが、拍手の多くは私達自身 によるものであって、リオの人々にはサイエンスやノーベル賞は、音楽やダンスほどには興味をひかないように見受けられた。 しかしピーターはすこぶる幸せそうで、ラストダンスにエスコートされた私の家内を含めて、多くの人々を幸せにしていた。

2. 喧噪と驚きのリオ
 ブラジリアに1960年に遷都されるまで首都であったリオは、人口600万以上のブラジル第2の大都市であり、最大の観光都市でも ある。Rio de Janeiro(原名は「1月の川」)の名の由来は、1500年にブラジルの地に漂着したポルトガル人がポルトガル領を 宣言し、その探検隊が1502年の1月に見つけた際に、その湾を川に見まちがえたがためである。コルコバードの丘からの眺めから、 それも無理からぬことが理解された。海抜710 mのこの丘には巨大なキリスト像が立っており、そこからの空と海の中に雲と陸が パズル模様に配されている景観は絶品であった。大会4日目は午前中のセッションでトーマス(Thomas Jentsch)らが演者と なったCl-チャネル・シンポジウムに出て、急いでリオ市内観光に出かけたが、そのトーマスも一人でリュックを背負ってその丘 に来ていたので、そこでもCl-チャネルの立話をすることになった。ホテル(=会場)を出てすぐのフラメンゴ公園での、見た こともない奇妙でいかにもトロピカルな植物群、その中の運動場で一日中サッカーの練習や試合をしている若者達、すぐそばを 貫通する道路での猛スピードの車車、そして一晩中どこからともなく聞こえてくるブラジル音楽、見るもの聞くものがすべて驚き であった。そこからのコパカバーナビーチへのバスもまた大きなアドベンチャーであった。乗り方もわからないので私は不安で あったが、そんな時には妙に勇気のある家内に駆られて人々の利用するバスに何とか見よう見まねで乗ったら、またその運転の ワイルドなこと! 倒れないようにつかまっていても私の体は車内で2〜3度大きくジャンプした。乗りたい人は道端で手をあげ、 急停車したバスに飛び乗り、降りたい所の手前でヒモをひいて知らせて、飛び降りていく。「遊びの天才」(ということはあまり 働かないという意?)といわれるカリオカ(リオの人の愛称)にこの敏捷性を与えているのは、この街のスピードとビートの きいた音楽と、それにリズミカルなダンスなのかもしれない。青い海と小麦色の肌のコパカバーナを後にしたが、より美しい ビーチといわれるイパネマに行く時間が取れなかったのは残念である。

3. 小粒でもピリッとしたCECS
 翌朝早く、リオの学会に私を招いて座長をしてくれたパンチョ(Francisco Sepulveda)と共にバルディビアに飛んだ。2年前に 客員教授として生理研に3ヶ月滞在して、アポトーシスとネクローシスの際のブレッビングの違いに関する共同研究を行い、1編の CDD誌掲載論文をゲットしたフェリペ(Felipe Barros)からの招聘に応えるためである。訪れたCECSは、人口10数万のバルディビ ア市の真中を流れるカイエカイエ川のすぐそばにあった。その明るい黄色塗りの建物は、最も古くからダウンタウンにあったホテ ルの廃墟を、市から外観保存を条件にむこう100年間無償で貸与されたものを内部改装したものである。
 CECSはバイオサイエンスと理論物理・天文学と極地学の3分野からなる小じんまりした法人型研究所であるが、その研究は世界的 トップレベルのものである。チリ政府は、その経済状況からは考えられないほど大きなサポートをこの基礎研究機関に与えており、 現在も新研究棟が建築中(雨が多くて遅々として完成しないそうだが)である。それでも、一流の研究を展開しつづけるためには、 広く海外や民間からも資金を求める必要があり、所長やディレクターの苦労が窺える。今私達が創設しようとしている自然科学研 究機構のミニチュアを見る思いで、身につまされることも多かった。
 このバイオサイエンス部門では、チャネルの生物物理学で有名なラモンが、ディレクターを務めながら頑として「K+チャネルが一 番大事だ!!」とこの研究を30数年間続けており、今回のロッドの受賞をとても喜んでいた。パンチョはCl-チャネルと上皮輸送 の仕事を生理学的に進めており、フェリペは細胞死のメカニズムを主として細胞生物学的アプローチで迫っている。新棟には近く 新たにヨーロッパから分子生物学者を呼びもどす予定である。同市内には国立大学(Universidad Austral de Chile)があり、 その理学部、医学部、工学部から多数の学生や院生がCECSに来て研究参加しており、パワーと若さと活気を与えている。岡崎市内 にそのような大学を持たない私達には、とても羨ましく感じられた。

4. されどK+チャネル
 ラモンとはこれまで、国際生理科学連合(IUPS)関係のフォーマルな会議で、しかめっつらで相対した間柄でしかなかったが、 今回の(時としてアルコールも交えての)インフォーマルでパーソナルな交流によって、あの学生時代の憧れの一人であるラモン の人間味に触れることができて感激した。
 ロッドは医学部出身でありながら、ほぼ独学でX線結晶解析法をマスターしたと聞く。これをバクテリア由来の電圧作動性K+ チャネル(KcsA)に適用して、その三次元構造をはじめて明らかにし、ポア形状とゲーティングメカニズムを可視的なものとした 点で、彼の受賞は時間の問題と考えていた。チャネル研究では、Hodgkin、Huxley、Ecclesの1963年の神経興奮及び活動電位の イオン説による受賞と、Neher、Sakmannの1991年のパッチクランプ法による受賞以来のことである。これら3つのピークの間にも、 実は多くの峰々がある。その中で最大のものに、故 沼 正作博士(元京大医教授)らのグループによる一連のチャネル遺伝子 クローニングが挙げられる。彼の受賞が実現しなかったことは、彼の門下生の多くが現在の生理研や基生研の血脈の1つを与えて いることからも、ことさら残念である。この原因は、彼の早死という不運ばかりではなく、クローンをオープンにしなかったが ために不興を買ったことにもあるのかもしれない、とラモンもつぶやいていた。沼さんは当時、K+チャネルはいわば空気のような もので、もっと(Na+チャネルやCa2+チャネルのように)大事なチャネルを研究すべきものと考え、そう語りもした。彼の考えは 私を圧倒し、そして当時のK+チャネル研究者から少なからず反発も呼んだ。今、K+チャネルの構造解析によるロッドの受賞を まのあたりにして、私は複雑な思いにある。そして、当時からバックグラウンド電流として空気以下に蔑まれて来たCl-チャネルの 研究を行っている私やパンチョやトーマスには、今回の出来事は秘かな励ましと感じられた。

5. 美しくも懐かしいチリ
 バルディビアは春とはいえ肌寒く、毎日のように(短時間ではあるが)雨が降り、私達を驚かせた。しかし、雨期の激しいここの 人々にはこれは雨とはいえないのだそうだ。チリは南北に4300 km以上、東西には平均175 km(最細の所ではなんと60 km!)と いう細長い国である。それがために緯度によって気候が大きく異なり、北部の砂漠、中部の国園地帯、南部の湖水地帯、最南部の パタゴニア地方、そして太平洋上にイースター島と4つに大別されている。例えば山も、バルディビアのある南部では緑におおわれ ているのに対し、中部のサンティアゴでは褐色の肌をむきだしにしていた。
 バルディビアに着いた翌日の金曜日と、次の月曜日に別々の講演を行い、その間の土日には、葦(縁起上「よし」とも読み替える) が群生し、ペリカン、カモメ、黒首の白鳥の楽園であるカイエカイエ川でのクルージングや、車で片道4時間をかけてのプエルト・ バラスPuerto Varasでの湖と滝、プエルト・モンPuerto Monttでのcurantoと呼ばれる郷土料理などの海の幸を楽しんだ。この車旅 の最大の目的は、多くの人がその美しさをたたえ、日本人が「チリ富士」と呼ぶ活火山オソルノ山を湖や滝の上に見ることであった。 しかし悔しいことに、その日も又雨模様で、厚い雲の時々の割れ目からもごく裾野しかその姿を見せてくれなかった。また、私達の かねてからの憧れの地パタゴニアや、氷河のフロントに、こんなに近くまで来ているのに足を運べないことに、臍をかむことしきり であった。
 アジェンデ政権崩壊(1973年)後の軍事独裁政権時代の大半をイギリスの研究生活で過ごし、17年後にサンティアゴ大学に戻った パンチョは、幼少時代を湖水地方で送ったせいか、南部のバルディビアに移り、その郊外の自然の中に大きくて居心地のよいついの すみかを建てることができたことをとても幸せに感じているようであった。1990年に軍事独裁政権が終焉を迎え、インフレも失業率 も他の南アメリカの国々に比べて低いチリは、物的には決して豊かとはいえないが、つつましやかで、人情味にあふれた、私達が 懐かしく思うよきものを多く残した、とてもすばらしい国であった。
 セミナーを終え、「美しい生理学の話をしてくれて、ヤスー(スペイン語では後ろのsuにアクセントをつけて伸ばし気味に発音する ようだ)本当にありがとう」と友人達のお世辞とはいえ嬉しい言葉に送られて、私達は40時間余の帰路についた。雲と同じ高さには、 チリの東端に白いアンデスの山々が連なっていた。
(機上にて)

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