2 生体恒常性維持機構と脳神経系情報処理機構の解明

2.1 研究の現況

脳では、末梢で感知した個体内外環境情報を統合・処理し、末梢の個々の組織・臓器の機能を調節することによって、個体恒常性機能を維持している。生理学研究所では、このメカニズムを理解するために、脳内情報をやりとりする分子の動態から個体活動までを繋ぐ研究を展開しており、これをさらに発展させるために遺伝子改変動物作製法やin vitro、in vivoの観察・計測法の新たな開発を進めている。本年度は、以下のような多様なレベルの研究が行われた。

(1) 多機能遺伝子改変システムの構築
1回のジーンターゲッティングで、5種類の異なる遺伝子操作、単純ノックアウト、レスキュー、異所性発現、過剰発現、可逆的ノックアウトが可能になる多機能遺伝子改変システムを構築した。この系を用いて、アストロサイト特異的遺伝性疾患モデルマウスを樹立した。更に、この系を応用して光感受性蛋白を細胞種特異的に発現させ、主に線条体投射神経とグリア細胞の光操作を開始した。

(2) 成熟動物網膜の器官培養法の確立
ラットやマウスの網膜を組織のままで培養し、新規薬剤のスクリーニングや遺伝子導入法の開発に活用できる系を確立した。培養した網膜は取り出したあとも、少なくとも4日間は、光感受性を保っており、様々な種類の遺伝子を導入することにも成功した。

(3) 脳内で主要な抑制性神経伝達物質として働いているGABAA受容体のサブユニットについて、その数や密度を高感度かつ定量的な凍結割断レプリカ法によって解析した。その結果、海馬の錐体細胞体ではすべてのGABAシナプスにα1, α2, β3サブユニットが共存しており、シナプス外の受容体密度はシナプスの約百分の一、受容体数はほぼ同数であることが明らかとなった。(Oxford大学との共同研究)

(4) シナプス終末からの伝達物質放出や神経細胞の興奮性の調節に必須である電位依存性カルシウムチャネルの数と密度について、凍結割断レプリカ法によって定量的な解析を行った。その結果、P/Q typeチャネルが放出部位に十数個のチャネルからなるクラスターを形成していること、T typeチャネルが樹状突起に均一に分布していること、などが明らかになった。

(5) ノンレム睡眠を誘導する新規ペプチドの機能
自由行動中マウスの脳波連続記録から、これまで機能がわかっていなかった神経ペプチドのニューロペプチドBが睡眠誘導に働いていることを明らかにした。このペプチドによって誘導されるのは、ノンレム睡眠であることも判明した。

(6) 覚醒レベルを上げる神経メカニズム
視床下部にある、覚醒物質として働くオレキシンを放出する神経細胞(オレキシン神経細胞)が、オレキシン受容体(特に、オレキシン2受容体)を発現し、オレキシン自体で活性化することを明らかにした。オレキシン神経同士が互いに活性化しあうことで、オレキシン神経活動が高い状態に維持されると考えられる。

(7) 視覚野の経験依存的発達
視覚野2/3層錐体細胞間には、非常に微細なスケールの神経回路網が存在する。この微細神経回路網の経験依存的発達を、両眼遮蔽した動物の結合パターンを解析することで調べた。両眼遮蔽動物では、2/3層錐体細胞ペアのシナプス結合は形成されているものの、微細神経回路網は構築されていなかった。この選択的回路網形成には生後発達期の正常な視覚体験が重要であることが示唆された。

(8) 前頭皮質GABA細胞のセロトニンによる活動修飾
新皮質の局所電場電位やFS細胞活動に対するセロトニン受容体拮抗薬の影響や、パルブアルブミン陽性細胞における、セロトニン受容体タイプの発現を調べたところ、新皮質の徐波生成がセロトニン2A受容体に依存することや、ガンマ振動がパルブアルブミンFS細胞の1A,2A受容体を介して調節される可能性がわかった。

(9) 脳虚血ペナンブラにおける微小血管血流動態の2光子レーザー顕微鏡による解析
脳微小血管血流の経時的動態を2光子レーザー顕微鏡を用いて観察する方法を開発した。この手法を使って、脳梗塞の治療ターゲットとなるペナンブラにおいて脳梗塞により障害された脳微小血管血流の変動や、20-HETE産生酵素阻害剤が脳梗塞体積を有意に縮小することを明らかにした。

(10) 幼若時脳損傷後における大脳皮質から障害側運動ニューロンへの新規回路形成
幼若時に片側皮質を切除したラットでは運動機能回復が起きる。損傷と反対側皮質の錐体細胞から障害側運動ニューロンへ興奮伝達の回復には、脊髄介在ニューロンを介する経路と網様体ニューロンを介する経路の2つの神経回路が関与することを電気生理学的に明らかにした。幼若脳損傷ラットでは、脊髄介在ニューロンへの新たな回路形成が起こっていることを示唆している。

(11) 新規肝臓分泌タンパク質Selenoprotein Pによるインスリン抵抗性発現機構
ヒト肝臓から血中に分泌され、糖尿病の重症度と良く相関する新規タンパク質Selenoprotein P (Sep P)を発見した。さらに、Sep Pが肝臓のAMPK活性を低下させ、インスリン感受性を低下させることを明らかにした。Sep Pのように肝臓から分泌されインスリン作用を調節する分子はこれまで知られておらず、Sep Pは''Hepatokine''という新規カテゴリーに含まれる分子として注目されている。(金沢大学との共同研究)

(12) ヒト脳において、言語能は左半球優位、空間記憶能は右半球優位であることが知られている。このような脳の左右非対称性の形成メカニズムや意義を調べるために、マウスで空間記憶能の左右差を調べたところ、ヒト同様、右半球優位であることを初めて明らかにした。今後は、これと既に明らかにしているシナプスやグルタミン酸受容体局在の左右差との関連を調べる。(理研との共同研究)

2.2 今後の展望

現在、生理学研究所ではシナプスから個体行動レベルまで脳の各階層を横断する研究が活発に行われている。これを実現するために多様な手法が用いられている。これからは、特に、脳機能解明のための階層融合イメージングを開発し、共同利用研究を進める必要がある。一方、細胞内・細胞外記録の電気生理学手法や、透過型電顕による形態解析は、引き続き、神経科学において重要な解析手法の地位を保つと考えられるが、それを使う研究者人口はあまり増えていないようである。今後、それらの技術伝達なども生理学研究所の重要な役割となると考えられる。そのためにも、従来の生理学・形態学手法を行なえる環境整備と、多光子励起顕微鏡による生きた組織における形態解析から個体行動解析などをシムーレスに行える研究体制整備を、並行して行う必要がある。その上で、イメージング技術と電気生理解析の融合や、微細回路の機能・形態観察の高度化の技術開発を進めていくことが望まれる。


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