4 より高度な認知行動機能の解明
4.1 背景
人間を対象とした脳研究は、近年の科学技術の進歩に伴う検査法の急速な進歩により、様々な高次脳機能、特に認知機能が解明されるようになってきた。電気生理学的には脳波と脳磁図(MEG)、脳血流解析ではポジトロン断層撮影(PET)、機能的磁気共鳴画像(fMRI)と近赤外線分光法(NIRS)が利用可能であり、これらの手法は、非侵襲的脳機能イメージングと総称されている。また、頭皮上から磁気を与えることにより脳内に電気刺激を与え、脳内の様々な部位の機能を興奮あるいは抑制することにより、その機能をより詳細に知る検査法(経頭蓋的磁気刺激法、TMS)の研究も進んでいる。生理学研究所は、このような手法を統合的にもちいることにより、高次脳機能を動的かつ大局的に理解することを目指し、非侵襲的脳機能イメージング研究に関する日本のパイオニアとして、世界的な業績をあげてきた。
4.2 社会能力の神経基盤と発達
非侵襲的脳機能イメージングの研究の重要な対象として、社会能力がある。これは他者と円滑に付き合う能力をさし、社会生活を送るために必須で、言語性・非言語性のコミュニケーション能力を基盤とした高次脳機能と捉えられる。その神経基盤および発達期における獲得過程については不明の点が多い。他方、科学技術の加速度的な発展による情報化、少子化、高齢化などによる、人とりわけ子どもを取り巻く生活環境や社会環境の急激な変化に対応するために、社会能力の重要性は増加してきている。「社会脳(social brain)研究」と称されている一連の研究は、これまで解明がほとんど行われてこなかった、動機付けや意味付けといった人間の最も高度な認知行動機構の解明を目指しており、社会的にも大きな注目を集めている分野である。成人を対象としたイメージング研究(例えば Izuma et al. Neuron, 2008; Izuma et al. J Cogn Neurosci 2010; Izuma et al. Soc Neurosci 2010)によって、社会脳と呼ばれる脳領域の機能解剖の一端が明らかとなりつつある。
一方で、発達途上の脳活動を直接観察することも極めて重要であり、様々な技術的困難を解決しつつ研究が進められている。例えば、顔は社会的信号として極めて重要であり、その認知機構と神経基盤は成人で詳細に調べられてきたが、その発達過程は明らかではない。近年乳児の脳活動計測法としてNIRSを用い、乳児の脳内での顔認知機能の発達を解析したところ、生後5ヶ月頃までに正面顔に反応する領域が乳児の脳内で発達し、その後生後7ヶ月には母親顔に対する左側頭部での活動増加を示し、8ヶ月頃には横顔でも、顔として処理することが示された。次に、乳児の顔認知に関連する反応領域として、右側頭部の下部領域での活動が確認され、上側頭溝での活動を反映していると推測された。これらの所見は、これまで明らかにされてこなかった乳児の顔認知に関与する反応領域を明確に示したものである(Nakato et al. Hum Brain Mapp 2009; Otsuka et al. Neuroimage 2007)。 さらには、7--8ヶ月の乳児が母親の顔を認知する際に、両側の側頭葉が関与することが明らかにされた(Nakato et al. Early Hum Dev 2011)。また、笑顔を見ると長時間活動が持続するが、怒り顔を見るとすぐに活動が消失することも明らかとなり、乳児が表情を認知していることも明らかになった(Nakato et al. NeuroImage 2011)。
このような研究背景のもと、文部科学省科学研究補助金 新学術領域研究「学際的研究による顔認知のメカニズムの解明」(2008年~2012年度、領域代表者 生理学研究所 柿木隆介 教授)により、「顔認知機能の解明」をキーワードとして、心理学、脳科学、医学、工学、情報学などの幅広い分野の学際的な研究者を結集して研究が開始された。最終的には、可能な限りその成果を社会に還元することを目的として大規模な研究班を組織し、全国規模で新たな研究潮流を形成しつつある。
一方、文部科学省 脳科学研究戦略推進プログラム 課題D 社会的行動を支える脳基盤の計測・支援技術の開発(2009~2003年度、分担機関 生理学研究所)により、実際のヒト社会行動における社会能力計測技術として、集団の脳機能・視線・行動計測法の開発を開始している。例えば、2個体間の相互作用とその神経基盤を研究する目的で、2台の高磁場(3テスラ)MRI装置を用いた脳機能同時計測(dual functional MRI)手法を開発した。なおdual functional MRI は2009年度末に生理研研究棟地階に導入を完了し、2010年度より運用開始した。種々の調整をへて、2011年度より共同利用に供する予定である。
4.3 新たな研究動向
社会脳の研究において端的にみられるように、非侵襲的脳機能イメージングを介して、文理融合型研究が急速に進みつつある。一例として、文部科学省科学研究補助金 新学術領域研究「ネアンデルタールとサピエンス交替劇の真相:学習能力の進化に基づく実証的研究」(2010年~2014年度、領域代表者 高知工科大学 赤澤 威 教授、分担代表者 生理学研究所 田邊宏樹 助教)を挙げる。これは、20 万年前の新人ホモ・サピエンス誕生以降、アフリカを起点として世界各地で漸進的に進行した新人と旧人ネアンデルタールの交替劇を、生存戦略上の問題解決に成功した社会と失敗した社会として捉え、その相違をヒトの学習能力・学習行動という視点にたって調査研究する。そして交替劇の原因を、両者の学習能力差に求め、その能力差によって生じた文化格差・社会格差が両者の命運を分けたとする作業仮説(学習仮説)を検証するという試みである。
- 旧人・新人の間に学習行動差・学習能力差が存在したことを実証的に明らかにすること
- 旧人・新人の間に学習能力差・学習行動差が生ずるに至った経緯を理論的かつ実証的に明らかにすること
- 旧人・新人の間の学習能力差・学習行動差の存在を両者の脳の神経基盤の形態差という解剖学的証拠で明らかにすること
を研究の方向性としており、人文系・生物系・理工系諸分野の研究者による新たな視点や手法に基づく異分野連携研究が謳われている。生理学研究所は、現生人類において社会学習(模倣、教示など、文化伝達を支える)と個体学習(試行錯誤、思考実験、洞察など、発明・発見を支える)の機能地図を明らかにし、その結果を、旧人・新人の化石脳の定量的形態差(比較形態学) と結びつけて両者の機能差を推定することを分担している。
このような研究動向から、生理学研究所は、大学共同利用機関として、広範囲にわたる学際的研究を推進する上で、重要な役割を果たしていくことが期待される。
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