生理学研究所 総合生理研究系 生体システム研究部門

4人組繁盛記

自然科学研究機構生理学研究所 南部 篤

 稲瀬正彦先生と共同研究を始めるきっかけとなったのは、1992年夏に三河湾沿いの山の上で開催された日本大脳基底核研究会でした。大脳基底核を専門とする基礎研究者と臨床研究者が合宿形式で泊まり込み、夕食後ともなるとお酒が入り発表や議論が果てしなく続くという研究会で、現在でも毎年開催されています。宿泊も相部屋で同年代の人が詰め込まれました。そこで一緒になったのが、稲瀬先生(当時、生理学研究所助手)、高田昌彦先生(当時、京都大学医学部講師、後、京都大学霊長類研究所教授)、徳野博信先生(当時、京都大学医学部助手、後、東京都神経科学総合研究所研究員、故人)です。4人とも大脳基底核の研究者で、稲瀬先生と私が神経生理学、高田先生と徳野先生が神経解剖学を専門としていました。稲瀬先生は丹治順教授(東北大学医学部)の研究室出身で、米国シアトルにあるワシントン大学のMarjorie Anderson教授の研究室での留学から帰国し、丹治先生が生理学研究所(愛知県岡崎市)の客員教授をされていた縁で生理学研究所に赴任したばかり、高田先生は水野昇教授(京都大学医学部)の研究室出身で早くから留学し、Stephen Kitai教授(米国テネシー大学)の研究室から水野先生の教室に戻ったばかり、私もボスの佐々木和夫教授が脳磁場の研究を始めるというのでRodolfo Llinás教授(米国ニューヨーク大学)の研究室から生理学研究所に呼び戻されたばかり、徳野先生は生理学研究所から京都大学の水野教授の研究室に異動したばかりでした。このように帰国あるいは異動したばかりの若くて小生意気な4人が同室となった訳です。
 神経生理学者と神経解剖学者とが組めば、これまでにない面白い研究ができるのではないかと徹夜で話しました。大脳基底核からの出力が視床を介して、どの大脳皮質領野を支配するのかという大脳基底核の出力については1980年代に一応の決着がついており、1990年代に入ると大脳皮質から大脳基底核への入力がどのように終わっているのかが次の問題になっていました。大脳皮質運動野といっても一次運動野以外に、補足運動野、運動前野、帯状皮質運動野など複数存在し、それぞれに口腔顔面、上肢、下肢などの体部位局在があります。このような大脳皮質の複数の領野からの、また異なる体部位地図からの情報が、大脳基底核の異なる領域で並列•分散処理されるのか、それとも共通の領域で収束•統合処理されるのかという問題です。これに回答するためには大脳皮質が発達しているサルを用いて、神経生理学者が大脳皮質領野を体部位局在まで含めて複数同定し、神経解剖学者が異なる神経トレーサーを打って解析すれば良いのではとなりました。稲瀬先生と私がいた生理学研究所は、全国の大学から研究者に訪問してもらい共同研究を行う大学共同利用機関であり、そのための実験設備、旅費、宿泊施設などが整っているので、実際の実験は生理学研究所で行うことになりました。
 しばらくたってから共同研究が始まり、月に一度ほど4人が生理学研究所に集まって1週間弱の合宿実験を行いました。大脳皮質運動野のマッピングは稲瀬先生の得意とするところで、研究所6階の実験室にあったカラオケボックスを改造したシールドルームの中で行いました(写真)。実験が終わると必ず宴会でした。外に行くことも多かったのですが、研究所内で行うこともあり、江橋節郎先生(生理学研究所所長)がお酒を伴ってご参加下さったり、後に近畿大学で稲瀬先生の研究グループに加わる中隯克巳先生(当時、生理学研究所助手)も宴会の常連でした。
 そうこうしている内に結果もまとまり出しました。大脳皮質運動野のうち一次運動野、補足運動野、運動前野からの投射は、大脳基底核の入力部である線条体において一部、情報の収束があること、一方、これらの口腔顔面、上肢、下肢などの領域からの投射は重ならない(体部位局在が保たれている)こと、前補足運動野と一次運動野からの投射は重ならないなど、並列•分散処理と収束•統合処理とが一定のルールに従って起こっていることが分かりました。また、一次運動野と補足運動野から視床下核へ体部位局在を保った直接投射があることも示し、「ハイパー直接路」と名付けました。この論文を投稿した際、査読者の1人から「最近、この4人の研究グループが、大脳基底核の線維連絡を全て明らかにする勢いで研究をしている。この4人組なら今回見つけた神経回路を、直接路、間接路に続くハイパー直接路と名付けても良いのでは?」というコメントを頂いたので、この名称を拝借しました。その後、ハイパー直接路は次第に認知され、現在では教科書にも掲載されています。これら4人組の成果は、16編の原著論文と5編の総説として報告されました。
 1995年4月に稲瀬先生がつくば市にある通産省電子技術総合研究所(現、産業技術総合研究所)の飯島敏夫先生(後、東北大学生命科学研究科教授)の研究室に、私が東京都神経科学総合研究所(現、東京都医学研究機構)に異動しましたが、相変わらず4人が東京都神経科学総合研究所に集合して実験を行い、国立駅周辺での宴会のあと国分寺市にあった私の単身赴任のアパートで合宿という共同研究を継続しました。また、順天堂大学医学部、群馬大学医学部にも遠征して実験を行いました。その後、徳野先生が続いて高田先生も東京都神経科学総合研究所に異動し4人組の研究は盛んになったのですが、1999年に稲瀬先生が近畿大学医学部に、2002年に私も生理学研究所に異動したこと、当初の目的であった大脳基底核の入力に関する問題にも一応の結論が出たこと、4人の興味がそれぞれ分かれていったことなどにより、4人組での共同研究は一定の役割を終えました。しかし、近畿大学医学部の講義•実習に、高田先生や泰羅雅登先生(日本大学医学部教授、後、東京医科歯科大学教授、故人)とともに私も呼んで頂くなど、交流が続いています。
 神経生理学者と神経解剖学者が協力して行う研究は有力ですが、考え方の違いなどで衝突することも多く、私たちのように長期間にわたって継続できた例はあまりありません。4人は年齢も近く、実験は好きだが実験結果への拘りは少ない、実験を終わったあとの乾杯が幸せ、というのが秘訣だったかもしれません。この4人組で楽しい30代を過ごしたことは、その後の4人の研究スタイルや研究内容に決定的な影響を与えたとともに、研究者としての大きな自信につながったと思います。

(「稲瀬昌彦教授業績目録」より)

カラオケボックスを改造したシールドルームの前で(1995年3月、生理学研究所)
左から稲瀬先生、徳野先生、南部、高田先生

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