第8回 記憶を細胞から調べるってどういうこと?(9-前)
2009.9 vol.11
東京大学 立花隆ゼミ 酒井寛
今回のブレインミステリーでは、「記憶」についての研究をみてみましょう。
記憶、というのは皆さんにとってもかなりなじみのある、イメージしやすい脳の機能ではないでしょうか?「ものごとを覚える」というこの人間の動作には多くの研究者が興味を持っていて、様々な研究が行われています。どれだけ多くの数字を覚えられるか、マウスは迷路の抜け道を覚えることができるのか、といった生き物の行動を外から見ることで記憶にせまる研究もあれば、特別な機械を使って、脳のなかのどの部分が記憶するときに働いているのかを調べる研究など、いろんな方法で、いろんな視点から研究されています。今回のブレインミステリーでは、前半では記憶に関係する細胞に焦点を当てた研究について、後半はそのなかでも生理学研究所の山肩葉子先生を中心にすすめられた研究を紹介します。
記憶において重要な現象、「LTP」
脳のなかには非常に多くの神経細胞があって、それらが機能ごとのグループを組んで多くの働きを分担しています。脳の持つ非常に多くの複雑な働きをがんばってこなしている神経細胞なのですが、おもしろいことに自分の担当する仕事によって形や性質が違うという特徴があります。中でも記憶を担当する「海馬」の神経細胞の形や性質については多くのことが知られていて、「スパイン」という特徴的なキノコのようなふくらみを持っていることが知られています。このスパイン、実は存在自体はかなり前に知られていました。まだ普通の顕微鏡しかなかった19世紀末(!!)に神経の観察をしていたラモニ・カハールという研究者が神経細胞の表面にふくらみがあることをはっきりと丁寧に観察して絵にしていたのです。それから長い間、ずっとこの「スパイン」が何のために存在していて何をしているか分からなかったのです。しかし技術が進歩した現代になり、ようやくその働きが解明されてきました。どうやら「記憶」をはじめとする脳の行う非常に複雑で難しい機能を支えているのではないかということがわかってきたのです。このスパインは脊椎動物(背骨のある動物)の神経細胞の表面に存在していて隣の神経細胞から強い刺激が与えられると大きく膨らみ、その大きさを維持することがわかりました。これを専門用語で「海馬長期増強現象(LTPともいいます)」といいます。「海馬の神経細胞が持っているスパインは刺激を受けると大きく膨らんで、そのままその形をキープしますよ〜」ということです。この現象が記憶となんの関係があるんだよ?と、ここまでがんばって読んできた皆さんは疑問を持つと思います。ここで少し分かりやすいたとえ話をしましょう。みなさんはCDを知っていますよね?CDは音楽の情報を電気信号に変換して、それをレーザーでCDの表面に刻み込んでいるのです。そのおかげでCDに音楽を記録しておくことができるのですが、これと似た原理が脳のなか、特に記憶を担当する「海馬」で起きているのではないか、と考えられているのです。つまり、脳のなかでは外からやってきた情報が電気信号に変換され、それが神経細胞どうしで情報が受け渡されるときに、スパインが信号を受け取って、そして大きく膨らみその大きさを維持するという過程を経て、「情報」を「形」にして脳に記録しているのではないか、ということがスパインの研究を通して分かってきたのです。なんと、記憶は情報を形に宿すことで行っていた!なんてかなり衝撃的じゃないですか?私もはじめてこの話を聞いたときは「絶対、ウソだ!」とおもいました(笑)けど本当らしいのです!
こういった記憶のメカニズムが細胞のレベルで分かってくると、また次の疑問が浮かんできます。
「じゃあ、どのようにしてスパインが膨らむのだろう?」
LTPが起こる仕組みに切り込む!
スパインが膨らむ現象(LTP)にはいろんな神経細胞の中の"プレイヤー"(酵素やタンパク質)が関わっているのですが、その中にCaMKⅡという酵素がいます。この酵素は脳のなかでも、重要な役割を持つからなのか、かなり多く存在していることがわかっています。また、CaMKⅡは主に2つのタイプ(CaMKⅡ"α"とCaMKⅡ"β")に分かれており、よく実験に用いられるマウスの大脳(海馬がある部分)では2タイプの中でもCaMKⅡαが特に多く存在していることがわかっています。このCaMKⅡはなんと12個で1チームを形成して、別のプレイヤーから「がんばってLTPのために働くんだ!!」と励まされるとスパインの先っぽのほうに移動しながら「俺らも、お前もLTPのためにがんばろうぜ!!」とチーム内で励まし合うだけでなく、他のプレイヤーを励ます機能をもっているという、面白い酵素なのです。
このCaMKⅡに関しては以前から研究が行われていて、記憶に非常に大事で不可欠な役割をしていることがわかっていました。遺伝子を書き換えて、狙ったものを生き物の中で出来なくしてしまうノックアウトマウス(1月号参照)をつかって、CaMKⅡαをなくしてしまったマウスをつかって実験したところ、記憶に大きな障害が出ることがわかったのです。
「CaMKⅡに魅せられて...」
そんなCaMKⅡの機能に非常に強い興味を示し、研究に取り組んだのが次回に紹介する山肩葉子先生です。山肩先生はCaMKⅡが海馬の神経細胞におけるスパインのLTPにどうか関わっているのか?記憶にはCaMKⅡのどういう機能が必要なのかと疑問に思い、この謎に挑むことにしました。しかし、その謎を解明するまでにはものすごい多くの時間がかかり、また周りの人からの多くの協力をうけて研究をすすめるものでした。私は話を聞いて「これは、まさにアドベンチャーだ!!」と驚きました。そんな山肩先生の努力、そして解き明かされた謎は次回紹介します。
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