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ブレイン・ミステリー

第9回 記憶を細胞から調べるってどういうこと?(9-後)

2009.11 vol.12

東京大学 立花隆ゼミ 酒井寛

今回はいよいよ記憶に関係する細胞の研究を、山肩先生の研究を例に詳しく見て行きます。その前に重要だけれども前回登場した難しい言葉のおさらいです。

海馬長期増強現象(LTPともいう)
脊椎動物(背骨のある動物)の神経細胞の表面に存在している「トゲ」のような形をした「スパイン」が、隣の神経細胞から強い刺激が与えられると大きく膨らみ、その大きさを維持することでその電気信号の刺激を形で記録しておく現象のこと。記憶・学習に大変重要な役割をもつと考えられています。

CaMKⅡ(正式名称は「カルシウム・カルモジュリンキナーゼⅡ」)
記憶や学習などの脳の重要な役割に関与しているせいか、脳のなかで働く酵素(タンパク質の中でも「仕事ができる」もののこと)の中でもかなり多く存在している酵素。主に2タイプ(CaMKⅡ“α”とCaMKⅡ“β”)に分かれており、よく実験に用いられるマウスの大脳(記憶に関係する海馬がある部分)ではCaMKⅡαが特に多く存在していることがわかっている。12個で1チームとなって働き、別のプレイヤーから「がんばってLTPのために働くんだ!!」と励まされるとスパインの先っぽのほうに移動しながら「俺らも、お前もLTPのためにがんばって働こう!!」とチーム内で励まし合うだけでなく、他のプレイヤーを励ましながらLTPのために働くという、面白い酵素である。

CaMKⅡはその1個1個が機能の異なる3つの部分をもっています。1つ目は、仲間や他のプレイヤーを励ます(このことをリン酸化といいます。)役割を担う部分。2つ目はこの「リン酸化」を調節する部分です。そして3つ目は、12個でチームになって活動するときに仲間同士でつながる部分です。そんなCaMKⅡに強い興味をもった山肩先生は、「CaMKⅡが記憶や学習に大事なのは、CaMKⅡαをなくしてしまったマウス(CaMKⅡαノックアウトマウス)では記憶・学習機能が劣っていることからもわかる。しかし、CaMKⅡのもつ3つの部分のうち、どれが記憶・学習に大事なのか、CaMKⅡαすべてを無くしてしまったノックアウトマウスでは分からないじゃないか!」と考えました。そこで山肩先生はある方法を考え出します。「ノック“アウト”マウス」ではなく、「ノック“イン”マウス」です。

ノックインマウスって、なに?

ノックアウトマウスは、マウスの遺伝子を操作することによってねらったタンパク質を体の中で出来なくしてしまったマウスのことです。これに対してノックインマウスは、「遺伝子を操作する」という所までは同じです。何が違うかというと、ねらったタンパク質、例えば酵素だと酵素「すべて」を出来なくしてしまうのではなく遺伝子を操作することによって、酵素の「ある特定の部分の構造」を変えて本来の働きを無くしてしまうのです。つまり、「つくれなくするのではなく、改造することでねらったタンパク質の特定の部分の機能を無くしてしまう」ということなのです。難しいですね。もっと簡単に説明するために、まず食器の「フォーク」を想像してください。フォークの先のとげとげの部分は「食べ物をつかまえる」働き、手で握る部分は「持ち手」としての働き、間にその2つをつなぐ働きをもつ部分、と3つに分けることができます。ノックアウトマウスの場合はこの「フォークまるまる無くしてしまう」操作ですが、ノックインの場合は「フォークの先の構造を変えて、スプーンにしてしまう」操作といえるのです。フォークの先がスプーンのようになると、「スパゲッティーを食べるのに使う」というフォークの元々の働きはなくなってしまいますよね?

このような方法を使って、CaMKⅡのもつ複数の機能のうち「どの機能」がLTPに重要なのかを探ろうとしたのです。

「話は簡単だけども…」ノックインマウスをつくる苦労

山肩先生は2タイプあるCaMKⅡのうち、海馬を含む大脳と呼ばれる部分にたくさんあるCaMKⅡαに目を付け、さらにそのCaMKⅡαのなかでも、リン酸化(仲間を励ます現象のこと)に関わる部位にねらいを定めてターゲットにしてノックインマウスを作成しました。話としては分かりやすいのですが、一体どのようにつくったのでしょうか?生物の設計図である遺伝子は、文字のような役割をする4つの物質(A,G,C,Tの4種類)で書かれています。ではこの生物の設計図である遺伝子を丸々書き換えるというような大掛かりな作業を行うのでしょうか?いいえ、違います。なんと、狙いをつけた「たった1文字」を別のものに変えることで、CaMKⅡαの「リン酸化に関わる機能」を無くしてしまうことに成功したのです。25億もあると言われているマウスの遺伝子の文字数のうち、たった1文字を変えるだけで機能が失われてしまうなんて、私も聞いたときはかなり驚きました。

この遺伝子を書き換える作業はたった1文字変えるだけなのですが、やるには大変な苦労と難しさを伴う作業です。実際に山肩先生はこのCaMKⅡαのリン酸化に関する部分の遺伝子を「たった1文字書き換える」までにどのくらいの時間がかかったと思いますか?なんと、2年です。そしてその書き換えた遺伝子をもったマウスを実際につくるまでに10年、そして実際に出来たマウスでCaMKⅡαがどのような動きをしているのか、どのような影響が出たのかを調べるのに5年かかったそうです。

長い時間と苦労を重ねて…ノックインマウスから分かったこと

長い時間をかけてやっとつくるのに成功したノックインマウス。CaMKⅡαの「リン酸化」に関わる機能を無くしてしまうことで、どのようなことが分かったのでしょうか?海馬では神経細胞のLTPが学習や記憶には重要であり、そのLTPを支えるのに重要な働きをCaMKⅡが担っているというのは以前にも紹介しました。CaMKⅡαのリン酸化機能をなくしてしまったノックインマウスでは一体何が起こったのでしょうか?海馬の神経細胞に刺激を与えてCaMKⅡの動きを確認してみると、正常なマウスと同様に12個のCaMKⅡでチームを作り、そしてスパインの先端まで移動して行くという挙動は変わらないのにLTPだけが起こらなかったのです。CaMKⅡαのリン酸化機能だけを無くしたとたんにLTPが起こらないということは、そのリン酸化機能こそが記憶・学習を担うLTPに不可欠であるという結果が導かれます。

bm12-1.jpg

そして実際に、ノックインマウスを使って記憶・学習能力を調べる実験を行いました。どのような実験かというと、明るい箱と暗い箱がつながった箱にマウスを入れると、マウスは暗い場所が好きなので、暗い箱に入って行きます。しかし、暗い箱には仕掛けがあり、マウスが暗い箱に入ると軽い電気ショックがかかります。そしてマウスに「暗い箱に入ってしまうとちょっとイヤだ」ということを覚えさせる訓練をするわけです。そして訓練が終わった後にどのような行動をマウスがとるのかを調べるのです。記憶・学習がきちんとできるマウスであれば訓練を受けると「暗い箱=ヤダ!!」と学習し暗い箱に入らなくなるのですが、ノックインマウスは何度訓練しても「暗い箱=ヤダ!!」と学習記憶できずに、何度も暗い箱に入ってしまうという結果になりました。

以上のことから、細胞レベルで見ても、また行動レベルで見てもCaMKⅡαの「リン酸化機能」が記憶・学習に重要な役割をもっている、ということが分かったのです。

長い時間、そして多くの人に支えられた「冒険」

今回の山肩先生の研究は、記憶・学習に重要なLTPの仕組みを知るために重要で、脳の記憶・学習障害が起こる病気の治療に役立つ可能性があるだけでなく、遺伝子を操作する方法によってより細かく生命の現象を解き明かすことが出来た、という点でも非常におもしろくて、重要なものであると言えます。そんな研究も山肩先生が一人でバリバリやったわけではありません。CaMKⅡについての研究をしたいという山肩先生の声に応えて、様々な研究者、なんと総勢15人の研究者をはじめとする多くの人々が協力をしたのです。そういった研究者達が自分の得意分野で山肩先生に協力し、チームとなって研究に取り組み、記憶・学習という生物のもつ不思議な機能の謎の一部を解き明かしたわけです。

「物事の結果、現象だけを見ているのでは面白くない。そこに至るまでに何が起こっているのかを自分の目で確認したいし、それが出来たときの感動は大きいんです。」と山肩先生は語ります。「そういう思いで研究していた中で、少しずつでも謎に向かって進んで行けたのは、いろんな人と出会ったおかげでもあるんです。」

生命の不思議を探る研究は、まさにアドベンチャー、冒険そのものと言えるかもしれませんね。