ご挨拶

2010年7月   伊佐 正 

サッカーワールドカップの日本代表はベスト16に終わったが、当初の惨敗の予想を覆して、一致団結、よく頑張ったと思う。しかし、今回の結果に満足してしまっては、それ以上には行けない。他のチームも進歩するだろうから、敗因をよく分析してさらに上を目指さなければ現状維持もできなくなる。世界を相手に戦うとはそういうことだと思う。

今、FENS(Federation of European Neuroscience) Forumに招待されてアムステルダムに来ている。(昨晩は準決勝でオランダがウルグアイに勝ったので街は大変だった)特別講演を終えて、自分なりにベストは尽くしたと思うし、講演を聴きに来てくれた人は十分に驚かすことができたと思うが、自分の認知度はまだまだかな、と思う。

あと数日で50歳になる。65歳で定年と考えると、生理研に来て今年の暮れでちょうど15年なので、折り返し地点に来たことになる。男の平均寿命が約80歳。色々な人を見ていて、ある程度頭脳がクリアで元気でいれるのがせいぜい80歳くらいまでかな、と考えると20歳から今までの時間を折り返すと自分の人生もそれくらいかな、と思う。20歳の夏は合宿所でボートを漕いでいた。合宿の最後にレースに出たのが、ついこの間のようなとても鮮烈な思い出だ。それを考えると大した時間ではないし、もっと短い可能性だって少なくない。これまであまりそんなことを考えることはなかった、というかその余裕がなかったのだけれど、残された自分の時間をどう使うのが良いのか考えてみても良いのではないか、と最近思うようになってきた。30歳代にはできていたのに、今できなくなったことがいくつかある。では30歳代にはできなかったけれど今できるようになったことはどれほどあるだろうか?研究者として生きることは常に新しい知を生み出し続けることであり、それは全身全霊を賭けた道のりの長い戦いである。

私にとっては、今の自分の裏に、常にあのまま普通に医学部を卒業して医者になっている自分のイメージというのがある。医者というのは、ある意味で「社会にとって役に立つ職種」の代表選手のようなものだ。一方で研究者としての自分(一般に言う意味での大学教員ですらない)は果たして本当に社会に貢献できることをこれまでどれだけしてきたのだろうか?「研究者は世界の誰でも読める論文を残せる」と思って論文を書いてきたけれど、どれだけ、人の心に残る論文を書けただろうか?現代はそれを作り出した人間の努力とは関係なしに情報は暴力的なまでに消費財になっている。「残るもの」を産み出すのは本当に大変だ。

ところで、私の父の叔父は池田遥邨という日本画家だが、遥邨氏は94歳で亡くなるまでずっと絵を描き続けた。50歳ごろの絵など、まだまだ若くて未熟。60歳、70歳で次第に円熟しはじめ、80代になってもどんどん画風が変遷し、実に緻密で円熟した大作を描き続けていた。これは定年がなく、自分ひとりで自分の手で描き続ける画家という職業の性質によるのだけれど、ある意味でとても羨ましいと思う一方、ずっと新しいものを生み出すための戦いを続けられたのだろうか、と思うと頭が下がる。一方、アムステルダムにはゴッホの美術館があるが、生きているうちには評価されること無く、若くして不幸のうちに亡くなり、死後評価された天才画家。共通して思うのは「自分は何が残せるのか?」という問いである。まとまりのない文章になったが旅先で思うつれづれに・・・




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 伊佐 正 教授 
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