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生理研について

所長あいさつ

これからの生理学と生理学研究所

 
自然科学研究機構生理学研究所・所長
伊佐 正

 isa2025.png生理学は、古代ギリシャでは”nature, origin”を意味するφύσις(phúsis)と”study of”を意味する“-λογία(-logía)”が連なった言葉で、広く「自然科学」を意味する言葉でした。それが、ヒポクラテスやアリストテレス、ガレノスの時代を経て16世紀にフェルネルによってPhysiologyという用語が初めて用いられ、「生体の機能を調べる学問」という、より特定の学問領域を指すようになって今日に至っています。それでも、「生体の機能」を調べる研究であれば全て生理学に含まれるわけで、相当広い学問領域が生理学の範疇に含まれます。ノーベル生理・医学賞がこのような名称になっている所以でもあります。このような「生体の機能を解明する」という基礎医学の最も根幹的な部分を指向する「生理学」の研究所が日本の学術基盤を支える大学共同利用機関の一つとして存在していることは今更ながらに素晴らしいことと思います。今日の生命科学、医学研究は広く基礎から臨床応用まで広がっており、ともすれば、より応用を指向する研究分野が重視されているように考えられるかもしれません。しかし、基礎がなくては応用研究の発展はあり得ないことは明白であり、生理学研究所としては、この最も基礎的な部分の研究を付託されていることの重みを常に認識しておく必要があります。

 私自身は大学の医学部の学生時代に、たまたま生理学の実験に触れて虜になり、それをより詳しく学びたいと思って大学院に入って既に40年が経過しました。最初は1950-70年代にスタンダートであったネコを対象として脳幹や脊髄による運動制御機構を古典的な電気生理学や解剖学を用いて解析する研究からスタートしました。ところが当時の1980-90年代は分子神経生物学、サルを用いた高次脳機能研究、ヒトの非侵襲脳機能イメージング、計算論的神経科学という新しい研究パラダイムがほぼ同時に爆発的に発展した時代で、私も自分の領域を広げる必要があると感じて、一旦グルタミン酸受容体の分子生理学研究に転じました。しかし当時これは最も競争の激しい分野で、欧米のトップラボとの競争に悪戦苦闘していました。

 そのような時に、思いもせず生理学研究所に選考いただき、35歳で自分の研究室を立ちあげることになりました。当時の所長の濱清先生を中心とする生理学研究所の首脳陣によると「今は分子生物学全盛だが、いずれ分子生物学を使って脳のシステムを解明する時代が来る」と考え、私に白羽の矢が立ったとのことでした。その時、私にはどうすれば分子生物学を使って脳のシステムを解明すればよいのか、明確なアイデアはありませんでしたが、その後、予想を超えて時計の針は早く回り、光遺伝学、化学遺伝学の時代が到来し、2種類のウイルスベクターを組み合わせて、サルで経路選択的に機能操作を行う手法を開発し、霊長類の感覚運動系の特定回路の正常機能と脳・脊髄損傷後の機能回復への寄与を明らかにすることができました。その後、9年前に京都大学医学研究科に異動し、京都大学では、連携の範囲も広がって、より高次な意思決定や精神神経疾患モデル霊長類の研究に展開することができました。このようにして、まさしく「分子生物学を用いて脳のシステムを霊長類で解明する」研究をリードすることができました。そしてこの度、生理学研究所に、所長として戻って参ることになりました。このように生理学研究所はまさしく自分を育ててくれた場所で、その更なる発展に所長として貢献できることは大変幸せなことと考えています。

 今日、多くの研究機関や研究費では、短期的な出口指向の目標に向かっての評価に追い立てられて若手研究者が右往左往させられているケースが少なくないと感じています。そのような時代において、私は、上記のような自らの体験をもとに、生理学研究所は、若い研究者が失敗を恐れず、試行錯誤を行いながら自分のサイエンスを確立していく場所にしていきたいと考えています。これまでも多くの先輩達が、生理学研究所でその後の大きな飛躍のきっかけを掴まれています。こうすることで、生理学研究所がCenter of excellenceとして、真に、独創的な研究に満ち溢れた研究所として発展していくようにしたいと考えています。

 一方で、生理学研究所は大学共同利用機関として、国内の生理科学領域の研究を支えていくミッションがあります。私はこの9年余りの期間、大学に在籍しておりましたが、昨今の国の財政状況の悪化から、個々の大学ではなかなか高額な研究機器を導入することが困難になってきていることを実感しています。このような現状において、大学共同利用機関の果たす役割は益々重要になってきていると思います。従って、生理学研究所としては、研究者コミュニティの皆様からアドバイスをいただきながら、最先端の研究を行っていくために必要な機器をいち早く導入し、さらにその使用法についてのトレーニングコースを実施していくといったことを通じて、日本のサイエンスを下支えして参りたいと考えています。私は、このように生理学研究所において、トップレベルの研究と共同利用研究という両輪をバランスよく回転させ、日本の生理学、神経科学領域の研究をワールドクラスにしていきたいと思います。

 そして最後に、これから研究を目指そうと考えている若い方々に申し上げます。このように生理学研究所は最先端の研究とそれを推進するための最先端の研究施設の両方が備わっている場所です。ここでは、総合研究大学院大学に属する博士課程の大学院コースもあり、一教員あたりの学生数が主要研究大学に比べてかなり少なく、眼の行き届いた充実した指導体制がとられています。また、国内外から多くの研究者が訪れて研究会やセミナーを行っている場所ですので、情報や人的ネットワークにも大変恵まれています。さらに岡崎という町は大変落ち着いたところで、職住接近で研究に集中できますし、一方で美しい山や海も近く、自然環境にも恵まれています。このような素晴らしい環境で研究者人生の一時期を過ごしてみることを強くお薦めします。

 尚、上記のような内容や、今後の生理学、神経科学の進むべき方向性について、私はこれまで折に触れて発言して参りました。詳しくは以下のリンクをご覧ください。
2025年4月


*今再び、「生理学」について
2008年 日本生理学雑誌第70巻6号
http://physiology.jp/wp-content/uploads/2014/01/070060161.pdf

*どのようなPIを育てるべきか?
サイエンスポータル(科学技術振興機構)2008年7月2日
https://scienceportal.jst.go.jp/explore/opinion/20080702_01/

*会長挨拶
神経科学ニュース(日本神経科学学会、2017年1月号)
https://www.jnss.org/neuroscience-news/2017/news_171.pdfのP11-12