自然科学研究機構・生理学研究所の伊佐正教授・木下正治特任助教らと福島県立医大・京都大学の共同研究チームは、新しい二種類のウイルスベクターを用いる ことで特定の神経回路選択的に遺伝子を導入する方法を新たに開発しました(二重遺伝子導入法)。この手法により、進化の過程で霊長類において新しく脳から の電気信号を筋肉に伝える直接の経路ができてきた一方で、取り残されてしまったと考えられてきた“間接経路”が、実は私たち霊長類においても手指の巧みな 動きを作りだすことに重要な役割を果たしていることを発見しました。文部科学省・脳科学研究戦略推進プログラムの共同研究プロジェクトによる研究成果で す。英国科学誌Nature(6月17日号電子版)に掲載されます。 |
ヒトを含めた高等な霊長類は、手を巧みに動かす能力を身につけたことで、爆発的な進化を遂げたとされています。このように手指を一本ずつ器用に動かす能力は、大脳皮質の運動野が、筋肉を支配している脊髄の運動神経細胞に直接接続するようになったからと考えられてきました。一方で、ネコやネズミといった、より下等で手先が不器用な動物では大脳皮質からの指令は脊髄の介在ニューロンを介して間接的にしか運動神経細胞につながっていません。このような“間接経路”は我々霊長類にも残っていますが、何をしているのかはよくわかっていませんでした。このように進化の過程で残された“古い回路”が高等動物の脳でも使われているのか?それとも邪魔だから抑制されているのかについては、多くの議論がありましたが決着はついていませんでした。今回、自然科学研究機構・生理学研究所の伊佐正教授・木下正治特任助教らと福島県立医大・京都大学の共同研究チームは、新しい二種類のウイルスベクターを組み合わせることで特定の経路選択的に遺伝子を導入する方法(二重遺伝子導入法)を新たに開発し、この間接路を中継する脊髄介在ニューロン系(脊髄固有ニューロン:propriospinal neuron)を選択的に抑制することに成功しました。これにより“間接経路”が、実は手指の巧みな動きを作りだすことに重要な役割を果たしていることが明らかになり、長年の論争に決着がつきました。今回の研究で鍵となったのは、2種類の新しいウイルスベクターを組み合わせて、特定の神経回路を選択的・可逆的に遮断する技術の開発に成功したことです。これまで生殖細胞での遺伝子改変が可能だったマウスではこのような操作は可能でしたが、霊長類では不可能でした。今回開発された方法を用いることで、将来、特定の神経回路を標的とした脳神経の遺伝子治療が大きく進むことが期待されます。
伊佐教授は「今回開発した霊長類への二重遺伝子導入法は、同じ高等哺乳類である人間の脳神経の遺伝子治療にも応用できる方法として期待できます。また、脊髄は単なる反射の経路ではなく、精緻な運動を制御する高度な役割を担っていることを見つけた教科書の常識を覆す発見です」と話しています。
文部科学省・脳科学研究戦略プログラム(課題C)にもとづく、福島県立医科大学・京都大学との共同研究による研究成果です。
1.霊長類の複雑な脳神経回路から特定の神経回路を選り分ける“二重遺伝子導入法”の開発に成功しました。
2.1の二重遺伝子導入法を、脊髄の中でも脳から電気信号を直接手指の筋に伝える直接経路と並行する“間接経路”(脊髄固有ニューロン)に適用したところ、この“間接経路”の神経伝達だけを抑えることに成功しました。
3.2によって、脊髄の“間接経路”も指先の巧みな動きをコントロールしていることを発見しました。
3つの神経(領域)(A,B,C)と、3つの神経(領域)(X,Y,Z)がつながり、複雑な神経回路を作っていると仮定します。このうち、BからYへのつながり(経路)を標的に遺伝子導入したいと想定します。この際、神経Yの神経のつなぎ目(シナプス)部位に逆行性ウイルスベクターである高頻度逆行性遺伝子導入 (highly efficient retrograde gene transfer , HiRet)ウイルスベクターを注入すると、神経Yに通じている神経に遺伝子(赤)が導入されます。その上で、神経Bに順行性ウイルスベクターを注入すると、神経Bの神経に別の遺伝子(青)が導入されます。この2つの遺伝子(赤と青)が二重に導入されたときのみに働くような仕組みを作っておけば(二重遺伝子導入法)、神経Bから神経Yへの経路だけに特異的に遺伝子発現による影響を与えることができます。
脊髄の“間接経路”に二重遺伝子導入法を適用しました。逆行性ウイルスベクターであるHiRetウイルスベクター(福島医大が開発)と順行性ウイルスベクターの両方に二重感染した脊髄固有ニューロン(Propriospinal neuron: PN)だけに特異的に遺伝子導入することに成功しました。これによって、DOXという薬物をサルに飲ませることで、この“間接経路”の神経伝達(シナプス伝達)だけを効果を強めた破傷風毒素(京都大学が開発)を使って特異的に止めることに成功しました。
二重遺伝子導入法を適用した結果、GFPを発現している脊髄固有ニューロン(PN)(“間接経路”)。
DOXを投与して“間接経路”の神経伝達を止めると、サルが手指をつかって筒の中のえさをつまむ運動ができなくなりました。つまり、“間接経路”が阻害されたことによって、手指の巧みな動きができなくなったと言えます。
1.特定の神経回路を標的にした遺伝子治療法開発へ期待
今回開発した二重遺伝子導入法は、霊長類や高等哺乳類の特定の神経回路に遺伝子導入することができる技術です。人間の脳神経系の疾患では、特定の神経回路の異常によって引き起こされる疾患も多く知られています。今回の研究成果によって、脳の複雑な神経回路の中でも特定の神経回路に対して、行動に影響を与えることができるほどにまで高い効率で遺伝子導入できる技術が開発されたことから、今後、こうした脳神経疾患の患者へのより副作用が少なく、効果的な遺伝子治療法の開発につながる研究成果といえます。
2.脊髄は単なる反射の経路という教科書的常識を覆す成果
教科書の常識では、脊髄は、脳からの電気信号を伝える通り道であり、せいぜい反射の経路としか考えられていませんでした。今回の研究成果により、脳から筋肉への信号の通り道の中でも、進化によって取り残された“間接経路”(脊髄固有ニューロン)が、手指の巧みな動きを生み出しコントロールしていることがわかりました。脊髄の神経回路も、精緻な運動を制御する高度な役割を担っていることを見つけた教科書を書き換える成果です。
3.高次脳機能解明の方法論に大きな突破口
ヒトを含む霊長類の脳は、1千億を超える神経細胞が複雑に絡み合う神経回路をつくり、高次脳機能を生み出しています。今回の手法を用いれば、こうした複雑な神経回路の中から特定の神経回路を選り分け、その機能を探ることができると期待できます。
4.脊髄損傷後のリハビリテーションに理論的基礎を与える成果
従来より、脊髄損傷が起きて、運動野から脊髄に至る直接経路が切れてしまうと運動能力の回復は困難とされていました。しかし、今回の結果から、進化的の過程で退化してしまったのではないかと考えられてきた間接経路をうまく活用することで、脊髄損傷の患者でも手指の器用な運動の機能回復を促進できる可能性があることがわかりました。このような新たなリハビリテーション法の開発や再生医療研究の発展が期待されます。
Genetic dissection of the circuit for hand dexterity in primates
Masaharu Kinoshita, Ryosuke Matsui, Shigeki Kato, Taku Hasegawa, Hironori Kasahara, Kaoru Isa, Akiya Watakabe, Tetsuo Yamamori, Yukio Nishimura, Bror Alstermark, Dai Watanabe, Kazuto Kobayashi, Tadashi Isa
英国科学誌Nature 6月17日電子版
<研究について>
自然科学研究機構 生理学研究所 認知行動発達研究部門
教授 伊佐 正 (いさ ただし)
特任助教 木下 正治 (きのした まさはる)
福島県立医大 医学部附属生体情報伝達研究所 生体機能研究部門
教授 小林 和人 (こばやし かずと)
助教 加藤 成樹 (かとう しげき)
京都大学 大学院生命科学研究科 認知情報学講座
大学院医学研究科 生体情報科学講座
教授 渡邉 大(わたなべ だい)
助教 松井 亮介 (まつい りょうすけ)
<広報に関すること>
自然科学研究機構 生理学研究所 広報
「脳科学研究戦略推進プログラム」事務局
福島県立医科大学
企画財務課(広報担当)
京都大学 渉外部 広報・社会連携推進室