私たちは、ものを一目見ただけでそれがどのような手触りをしているか、詳細に判断する能力を持ちます。この能力には過去に自らが経験した、様々なものを実際に見たり触れたりした記憶が大きく関与していることは想像に難くありません。しかし「見て触れる」といった複数の感覚を伴う経験が、脳のどの部位にどのような影響を与えるのか、十分に知られていませんでした。 今回、自然科学研究機構 生理学研究所の郷田直一助教と小松英彦教授らの研究グループは、ヒトと同様の視覚・触覚機能を持つサルを用いた研究によって、様々な新しいものを実際に「見て触れる」経験をすることで、 視覚の情報処理を司る脳部位である「視覚野」の視覚刺激への反応が変化することを明らかにしました。つまり、単純に「見る」だけの場合と比べ、「見て触れる」といったような複数の感覚刺激を同時に経験することは、視覚の情報処理を司る視覚野の活動自体にも影響を与えていると考えられます。 本研究結果は、米国科学雑誌であるCurrent Biology誌に掲載されます(日本時間3月18日オンライン版掲載)。 |
脳には、視覚、聴覚、触覚などのさまざまな感覚情報を処理する、各々の感覚情報処理に特化した領域(感覚野)があります。ものを見たときは、後頭葉にある「視覚野」で入力された視覚情報を分析し、そのものが何なのか、どのような素材でできているかなどを認知・判断します。視覚野の機能はこれまで実際に体験してきた視覚の経験(例えば同じものを繰り返してみたり、見た目の違いを区別する訓練をしたりするなど)によって変化しますが、触覚や聴覚などといった、他の感覚の経験の影響は受けないと考えられていました。
今回、小松教授と郷田助教の研究グループは、サルに「さまざまな素材で作られた棒状の物体(図1)を実際に見せ、そして触れさせる」課題を遂行させ、それら素材の見た目と手触りを十分に経験させました(図2)。これらの素材のうち、セラミックやガラス、布などは、ヒトにとっては日常的に身の回りに存在するものですが、サルにとっては馴染みがないものです。
これらのような自身の経験としてすでに知っているものと知らなかったもの、それぞれを実際に「見て触れる」経験をさせる前と後で、サルが各素材の写真を「見ている」時の脳活動を、機能的磁気共鳴画像法(fMRI:functional Magnetic Resonance Imaging)*用語1を用いて計測しました。
結果、脳の視覚野の下側頭皮質 *用語2後部(図3)の活動が、「見て触れる」経験によって素材の外観や手触りの印象をよりよく反映した反応パターンを示すことがわかりました。つまり、「見て触れる」経験後には、手触り(滑らかさ、硬さ、冷たさなど)の似た素材に対しては似たような反応をし、手触りの違う素材に対しては異なったパターンの反応を示す結果となったのです(図4)。下側頭皮質後部は、通常視覚の情報処理に特化した脳領域であり、聴覚や触覚などといった他の感覚刺激に影響を受けないと考えられていましたが、本研究によって、素材の外観を見るだけでなく、手触りを合わせて経験することで、その反応パターンは手触りの違いを反映したものへと変化したと考えられます。
この結果から、視覚野がより高度な発達を遂げるためには視覚だけでなく、他の感覚の経験が非常に大切であることが判りました。
本研究は文部科学省科学研究費補助金の補助を受けて行われました。
実験には左の図の36本の棒状の物体を使用しました。これらの素材は外観や手触りが違っています。例えば、金属は滑らかで固く、光沢がありますが、布は柔らかく光沢はありません。また、外観や手触りが似通っている素材もあれば、大きく違っている素材もあります。そこで、素材によって外観(色、光沢、透明度、見た目の規則性など)や手触り(滑らかさ、硬さ、弾力、冷たさ、重さなど)がどの程度違っているかを調べるため、ヒト被験者(12名)に評価してもらいました(右の図は評価実験の様子)。
図1の物体素材のうち、セラミック、ガラス、布などは、ヒトにとっては日常的に身の回りに存在するものですが、サルにとっては馴染みがないものです。そのため、サルはそのような素材が柔らかいのか硬いのか、軽いのか重いのかはおそらく知らないだろうと思われます。実験では、サルが、そのような馴染みのない素材を「見て触れる」経験をして、それらの実際の手触りを学習すると、脳活動にどのような変化が現れるのかを調べました。このため、実験では、サルに36本の素材を「見て触れる」課題(視触覚経験課題)を行わせました(2ヶ月間)。 そして、この課題の前後に、サルが素材の写真を「見ている」時の脳活動をfMRIを用いて計測しました。
実験では視覚の情報処理に特化した視覚野の反応を詳細に調べました。視覚野は機能が異なる複数の部位に分かれています。赤色部位は下側頭皮質後部にあたります。
下側頭皮質後部は視覚刺激が与えられると活動しますが、その反応パターンは素材によって異なります。この「反応の違い」が、あらかじめヒト被験者で調べておいた素材の「外観の違い」や「手触りの違い」(図1右図)にどの程度対応しているかを調べました(注1)。
<左上グラフ>
素材の外観と手触りの違いを示しています。図の中で近くにある素材同士(例えば布と皮革、金属とセラミックなど)は、素材の外観と手触りが比較的似ています。しかし、離れている素材(例えば毛と金属)は外観と手触りが大きく異なっています。
<右上グラフ>
「見て触れる」経験後の下側頭皮質後部の反応の違いを示しています。左上グラフと同様に、図の中で近くにある素材同士(例えば布と皮革)は、反応が似ています。しかし、離れている素材(例えば毛と金属)は、反応が大きく異なっています。左上のグラフとこのグラフを比較したところ、全体的に素材の配置がよく似ていることがわかります。つまり、外観や手触りの似た素材に対しては下側頭皮質の反応も似ており、外観や手触りの違う素材に対しては下側頭皮質の反応も異なっています。
<下グラフ>
「見て触れる」経験の前後において、下側頭皮質の反応が素材の「外観の違い」や「手触りの違い」とどの程度似通っているかを数値化したグラフです。「見て触れる」経験をした後では、下側頭皮質後部の反応の違いは、素材の「外観の違い」や「手触りの違い」とよく対応することがわかりました。このような脳活動と素材感との対応は「見て触れる」経験の前には見られていませんでした。また、このような経験による変化は、同じ視覚野の中でも他の部位ではみられませんでした。この結果から、「見て触れる」経験をすることで、下側頭皮質後部の活動が素材の外観や手触りの印象をよりよく反映するように変化することがわかりました。(注1:サルが外観や手触りの評価をするのは困難なため、評価はヒトで行いました)
今回の研究によって、「見て触れる」といった多感覚の経験によって物を見て認識する仕組みまで変化することがわかりました。このことは、『脳が様々な物を認識したり質感を感じるメカニズム』の全容を解明するための重要な足がかりとなると、私たちは考えています。また、物を見て認識する人工知能の開発にも、新しい見方を与える発見であると考えています。
Crossmodal association of visual and haptic material properties of objects in the monkey ventral visual cortex
Naokazu Goda, Isao Yokoi, Atsumichi Tachibana, Takafumi Minamimoto, Hidehiko Komatsu
Current Biology 日本時間3月18日オンライン版掲載予定
<研究について>
自然科学研究機構 生理学研究所 感覚認知情報研究部門
助教 郷田直一 (ゴウダナオカズ)
教授 小松英彦 (コマツヒデヒコ)
<広報に関すること>
自然科学研究機構 生理学研究所 研究力強化戦略室
生理学研究所・研究力強化戦略室