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脳内の酵素の機能をなくすことによって、著しい「記憶障害」マウスを開発
-記憶のメカニズムの解明へ前進、記憶障害の治療法開発へ期待-

プレスリリース 2009年6月19日

概要

学習や記憶の形成には脳の中の様々なタンパク分子が連携して働きますが、中でもカルシウム・カルモジュリンキナーゼIIといわれる酵素タンパク質が中心的な役割を果たすと考えられています。しかしながら、このタンパク質は脳内に非常に多く存在し、酵素以外にも様々な機能を持っているため、従来のタンパク質そのものを無くしてしまう遺伝子改変法では、その酵素活性がどの程度学習や記憶に役割を果たしているか明確にすることができませんでした。今回、自然科学研究機構・生理学研究所の山肩葉子助教の研究グループは、このタンパク質の酵素機能だけを抑えたマウスを開発し、細胞から行動に至るすべてのレベルで学習や記憶が著しく障害されていることを明らかにしました。東京大学・岡部繁男教授、真鍋俊也教授、群馬大学・柳川右千夫教授、生理学研究所・井本敬二教授、小幡邦彦名誉教授らとの共同研究です。米国神経科学会雑誌(ジャーナルオブニューロサイエンス、6月10日号)に掲載されました。

本研究グループは、脳の記憶を司る領域である「海馬」に多く存在する酵素タンパク質「カルシウム・カルモジュリンキナーゼIIアルファ(CaMKIIα)」に注目。今回、このタンパク質の機能のうち「タンパク質リン酸化(タンパク質にリン酸基を付けることによって、その性質を制御する)」という酵素機能のみを消した遺伝子改変マウス「CaMKIIα(K42R)ノックインマウス」の開発に成功しました。そして、この酵素の働きが学習や記憶にどのように影響するのかを神経細胞、スライスした脳標本、マウスの行動レベルで観察しました。正常のマウスでは、海馬において、記憶を形成するような強い刺激が、神経細胞と神経細胞のつなぎ目で信号伝達を行うシナプスに到来すると、受け手側の神経細胞で、この酵素タンパク質がシナプス近くに移動し、その部分の突起が膨らみ、受け取る信号が大きくなる「長期増強」と呼ばれる現象が起こります。これが、記憶の形成へと繋がります。しかし、この遺伝子改変マウスでは、このタンパク分子のシナプスへの移動は起こるものの、神経細胞の突起の膨張も信号の増大も起こりませんでした。さらに、マウスの行動を調べるため、暗い箱に入ると軽い電気ショックを感じるしかけにしておくと、正常のマウスは、一度入った後は二度と暗い箱に入らないのに対し、この遺伝子改変マウスは、二度目でもすぐに暗い箱に入ってしまうというように、「暗い箱の中で嫌なことが起こった」ということを覚えられない、あるいは直ちに忘れてしまうことがわかりました。

これまでの研究で、CaMKIIα酵素タンパク質の存在そのものを無くした遺伝子ノックアウトマウスは開発されていましたが、今回のタンパク質リン酸化の機能のみをなくしたノックインマウスほどには、「長期増強」や学習・記憶が劣ることはありませんでした。従来の方法では、脳に多く存在するタンパク質を無くしてしまうと、二次的に他のタンパク質がその機能を補うように働くためと考えられます。今回は、「タンパク質としては存在するが特定の機能のみをなくしたマウス」を作製することによって、脳の中の、特に海馬での、タンパク質リン酸化の重要性をはじめて示した研究成果と言えます。

山肩助教は「これほど学習・記憶に障害のあるマウスを開発することができたのはCaMKIIα のリン酸化機能のみに焦点を絞ったからでしょう。脳の記憶のメカニズム、記憶障害研究のためのモデル動物としても画期的な開発であり、認知症をはじめとする脳疾患の治療方法、対症療法の開発に役立つ可能性があります。」と話しています。

本研究成果は、科学研究費補助金、ならびに科学技術振興機構(JST)戦略的創造研究推進事業(CREST)の支援を受けて行われました。

このマウスの作製については、JSTより特許出願申請中です。

今回の発見

1)脳の記憶を司る領域である「海馬」に多く存在する酵素タンパク質「カルシウム・カルモジュリンキナーゼIIアルファ(CaMKIIα)」(図1)の酵素活性のみを抑えた遺伝子改変マウス「CaMKIIα(K42R)ノックインマウス」の開発に成功した。

2)この遺伝子改変マウスの脳の「海馬」では、「記憶」に伴う神経細胞の形や信号の変化が見られなかった(図2)。

3)この遺伝子改変マウスの学習記憶テストを行ったところ、すぐ前の出来事でも記憶しておくことができなくなっていた(図3)。

4)CaMKIIαの酵素活性は、神経細胞シナプスから行動レベルにおける記憶の形成に不可欠であることがわかった(図4)。

 

【図1】 脳の記憶を司る酵素「カルシウム・カルモジュリンキナーゼII(CaMKII)」

Yamagata_Fig1.jpg
 

CaMKIIは、風車のような格好をした酵素で、タンパク質にリン酸基(-P)をくっつける酵素活性があります。タンパク質はリン酸化されることで、形や性質が大きく変化します。

【図2】 CaMKIIα (K42R)マウスでは、海馬の神経細胞が「記憶」を起こすような刺激をうけても、シナプスの変化が起きない

Yamagata_Fig2.jpg脳の記憶を司る「海馬」の神経細胞では、記憶を起こすような刺激がくると、シナプスの形が変わり、信号をより大きく受け取るように変化しますが、この遺伝子改変マウスでは、そうした変化が見られませんでした。

【図3】 CaMKIIα (K42R)マウスでは、学習記憶障害が著しい

Yamagata_Fig3.jpgこの遺伝子改変マウスは、暗い部屋で電気ショックを受けたこともすぐ忘れてしまいます。「暗い部屋」という場所の認識ができない、あるいは「暗い部屋=危険」という関連づけができないと考えられます。

【図4】CaMKIIα の酵素活性は、シナプスで記憶の形成にかかわる重要な働きをする

Yamagata_Fig4.jpg記憶を起こすような強い刺激がシナプスに入ると、CaMKIIαタンパク分子はシナプス部へ移動し、そこでタンパク質をリン酸化することによって、シナプスの形や反応を大きくしますが、CaMKIIαの酵素活性がないK42Rマウスでは、この反応が起こらないために、記憶の形成が起こらないと考えられます。

この研究の社会的意義

1)「記憶」のメカニズム解明へ前進

 今回、CaMKIIα酵素の「タンパク質リン酸化」という酵素活性が、特に「海馬」での記憶形成に重要な役割を担っていることが明らかになりました。CaMKIIαの酵素活性のみに着目した研究は少なく、その記憶への関わりを明らかにしたのは本研究がはじめてです。本研究をきっかけに、記憶の形成について今後さらに詳しいメカニズムの解明が進むものと期待されます。
 

2)「記憶障害」の治療法開発へ期待

 
 様々な原因で記憶障害になったり、認知症などで「物忘れ」が激しくなった患者さんたちがいらっしゃいます。こういった症状は、「海馬」の機能障害によると考えられますが、記憶障害に対する有効な治療法は、いまだ見つかっていません。今回開発した遺伝子改変マウスは、こうした記憶障害への新規薬剤の検討や、新しい治療法の開発などに必要な「記憶障害」モデル動物として、有効に役立つものと期待されます。

論文情報

Kinase-Dead Knock-In Mouse Reveals an Essential Role of Kinase Activity of Ca2+/Calmodulin-Dependent Protein Kinase IIα in Dendritic Spine Enlargement, Long-Term Potentiation, and Learning
Yoko Yamagata, Shizuka Kobayashi, Tatsuya Umeda, Akihiro Inoue, Hiroyuki Sakagami, Masahiro Fukaya, Masahiko Watanabe, Nobuhiko Hatanaka, Masako Totsuka, Takeshi Yagi, Kunihiko Obata, Keiji Imoto, Yuchio Yanagawa, Toshiya Manabe, and Shigeo Okabe
米国神経科学会雑誌 [ジャーナルオブニューロサイエンス (Journal of Neuroscience)、2009年6月10日号、29巻、7607-7618ページ] に掲載

お問い合わせ先

<研究に関すること>
山肩 葉子(ヤマガタ ヨウコ)助教
自然科学研究機構 生理学研究所 (山手地区)

 

<広報担当>
自然科学研究機構 生理学研究所広報室

 

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