概要
仕事への意欲を左右する最大の要因の一つは、対価として自己が手にする報酬量(給料など)でしょう。しかし、興味深いことに、自己の報酬量は同じでも、職場の同僚など、他者の報酬量が自分より多いとわかると、自己の報酬の相対的価値が下がり、仕事への意欲が低下してしまうことがあります。このような現象はサルでも見られることが分かっていましたが、脳内のどの神経回路で処理されるのかは、これまで明らかとなっていませんでした。今回、自然科学研究機構生理学研究所の則武厚助教、二宮太平助教、小林憲太准教授、磯田昌岐教授は、ニホンザルの内側前頭前野から視床下部外側野に至る神経回路の活動を人工的に遮断することで、それまで他者の報酬を気にしていたサルが、それを気にしなくなることを明らかにしました。この研究は、文部科学省ナショナルバイオリソースプロジェクト「ニホンザル」の支援、日本医療研究開発機構および文部科学省科学研究費補助金の助成によりおこなわれました。 |
背景
程度の差こそあれ、人は誰でも他者の得るものが気になるものです。身近な例では、職場の同僚の給料が気になってしまい、同じ仕事内容にもかかわらず、同僚の給料が自分より多いとわかると、嫉妬を感じて人間関係がぎくしゃくしたり、仕事への意欲が低下したりすることがあるのではないでしょうか。たしかに、給料や財産にはその価値を定める絶対的な基準がありませんので、自己の報酬の価値は多くの場合、他者のそれと比較して決まることになるのでしょう。このようにして決まる報酬の価値を、ここでは「相対的価値」とよぶことにします。
先行研究について
それでは、他者の報酬に関する情報は、脳内のどこでどのように処理されるのでしょうか。研究グループはこれまでの研究で、①サルもヒトと同様に他者の報酬を気にする、②大脳皮質の内側前頭前野
*1には自己または他者の報酬情報を処理する神経細胞が存在する、③脳幹に近い視床下部外側野
*2には報酬の相対的価値を処理する神経細胞が存在する、ということを明らかにしてきました。これらの結果から、
「内側前頭前野から視床下部外側野に至る神経回路は、相対的価値の計算に深く関わっており、仮にこの回路が阻害されれば、サルは他者の報酬を気にしなくなるのではないか」という仮説が導かれます。
しかし、この神経回路が報酬の相対的価値の認識に直接影響を与え、サルの行動を変化させるのかどうかは分かっていませんでした。そこで本研究では、ウイルスベクター
*3を利用して、内側前頭前野から視床下部外側野に至る神経回路を選択的に遮断することで、サルの行動に、どのような変化がみられるかを検証しました。
報酬の価値を測定する方法
まず、サルが報酬の価値をどのように評価しているのかを、サルの行動から測定することが必要です。研究グループはこれまでの研究で、報酬(ジュース)を与えた際のリッキング運動(ジュースを飲もうとする口の動き)から、サルにとっての報酬の価値を測定する方法を確立しています。本研究でも同様に、対面する2頭のサルに「社会的古典的条件づけ」とよばれるタスクを課し(図1)、リッキング運動の回数を測定しました。自己の報酬量が変化する条件では、自己の報酬確率が高くなるほど、リッキングが増え、自己報酬の価値が高まることを確認しました。一方で、他者の報酬量が変化する条件では、自己の報酬確率は一定にもかかわらず、他者の報酬確率が高くなるほど、リッキング運動が減少し、自己報酬の価値が下がることを確認しました。このことは、他者の報酬が、自己の報酬の価値評価に影響を及ぼす、すなわち、相対的価値が計算されていることを示すものです。
神経回路を阻害した際の行動の変化
つぎに、内側前頭前野から視床下部外側野への神経回路の働きが、サルの行動にどのような影響を与えるのかを直接的に検証するため、ウイルスベクターを用いて、内側前頭前野の神経細胞の中で視床下部外側野へ投射するものだけに人工受容体
*4を発現させました。これにより、外からDCZ
*5と呼ばれる薬を投与したときのみ、標的とする神経回路の機能を遮断することが可能となりました。この遮断効果は一過性であるため、繰り返し調べることができるという利点があります。
このようにして内側前頭前野から視床下部外側野に至る神経回路の活動を遮断したところ、他者の報酬が変化する条件において、他者の報酬確率がリッキング運動に影響を与えなくなることが分かりました(図2)。この結果は、
内側前頭前野から視床下部外側野に至る神経回路を遮断することで、サルが他者の報酬を気にしなくなったことを示しています。一方、自己の報酬が変化する条件では、報酬が増えるとリッキング運動が増える傾向に変化はありませんでした。この結果は、たとえ上記の神経回路が遮断されても、自己の報酬に対する評価は、変わらず行われていることを示しています。これらの結果から、他者の報酬情報を考慮し、相対的価値を評価する際に、内側前頭前野から視床下部外側野に至る神経回路が決定的に重要な役割を担っていることが結論付けられました。
電気生理学的実験
さらに私たちは、内側前頭前野と視床下部外側野の神経活動を電気生理学的手法により同時計測し、神経回路の遮断中にどのような変化が生じているのかを解析しました。その結果、内側前頭前野から視床下部外側野に向かう情報の流れが、他者の報酬確率が変化する条件のみにおいて減少していることを突き止めました(図3)。
まとめ
磯田教授は、「内側前頭前野から視床下部外側野に至る神経回路を選択的に遮断すると、自己の報酬の価値を評価する際に他者の報酬を考慮しなくなるという結果が得られました。脳内には無数の神経回路がありますが、他者の報酬情報を伝える神経回路は少なく、その中でも特に内側前頭前野から視床下部外側野への情報伝達が重要であることを示唆しているのだと思います。今回の研究成果は、他者の報酬を気にしてしまうという人間らしい認知特性を生む神経回路を同定したものであり、複雑な社会的情動である嫉妬の神経基盤の解明につながるものと考えています。」と話しています。
本研究は、文部科学省ナショナルバイオリソースプロジェクト「ニホンザル」の支援、日本医療研究開発機構 (JP22dm0307005、JP21dm0107145)および文部科学省科学研究費補助金 (22H05081) の助成を受けておこなわれました。
*1 内側前頭前野: 大脳の前頭葉の最前部に位置する前頭前野と呼ばれる脳領域の中で、左右の脳が接する内側部分のこと。自己と他者の様々な行動情報を処理する神経細胞が存在する。社会的認知機能を担う中核領域のひとつと考えられている。
*2 視床下部外側野: 視床下部を構成する一つの領域。もともと摂食中枢として知られていた部位。現在は、摂食に加え、睡眠・覚醒など、多様な生理機能の調節に関係すると考えられている。
*3 ウイルスベクター: 遺伝子の運び屋。ウイルスが持つ、遺伝子を細胞に導入する性質を利用して、実験目的に適した外来遺伝子を標的とする脳部位に発現させることができる。
*4 人工受容体: 生体内に存在する受容体(内因性受容体)に遺伝子変異を導入することで、人工的に作製した受容体のこと。人工受容体には、生体内に存在するいかなるリガンド(神経伝達物質など)も結合しない。
*5 DCZ(Deschloroclozapine, デスクロロクロザピン): 人工受容体に結合する、人工的に作られたリガンドの一つ。
今回の発見
1.内側前頭前野から視床下部外側野に至る神経回路を選択的に遮断すると、それまで他者の報酬を気にしていたサルが、それを気にしなくなるということを発見しました。
2.その結果、他者の報酬が増えるにしたがって自己の報酬の相対的価値が下がるという現象が認められなくなりました。
図1 実験条件(社会的古典的条件づけ
(上段)対面する2頭のサルに図形刺激を提示する。神経回路の遮断操作をおこなうサルを「自己」、他方のサルを「他者」とする。報酬結果(ジュースをもらえるか、もらえないか)は、まず他者に提示され、次いで自己に提示される。なお、リッキング運動の計測は、報酬を与える前の刺激提示時に行った。
(下段)このタスクでは、各サルに与える報酬(ジュース)の確率を操作した。各図形刺激には、あらかじめ自己報酬確率と他者報酬確率が対応づけられている。自己変化条件では図形1~3の中から一つが毎試行ランダムに提示され、どれが提示されるかによって、自己の報酬確率だけが異なるようにした。他者変化条件では図形4~6の中から一つが毎試行ランダムに提示され、どれが提示されるかによって、他者の報酬確率だけが異なるようにした。
図2 神経回路遮断による報酬の価値評価への影響
(上段)生理食塩水を注射しても、内側前頭前野から視床下部外側野への神経回路の機能は正常に保たれる。このとき、自己の報酬確率が上がると、報酬価値を反映するサルのリッキング運動(口の運動)が増加し、他者の報酬確率が上がるとリッキング運動は減少する。
(下段)DCZを注射すると、内側前頭前野から視床下部外側野への神経回路が遮断される。このとき、自己の報酬確率が上がると、生理食塩水注射時と同様にリッキング運動は増加するが、、他者の報酬確率が上がっても、リッキング運動の減少がみられなかった。
図3 神経回路遮断による情報流の変化
(左)神経活動同時計測の模式図。
(右)内側前頭前野から視床下部外側野への情報流を、DCZ注入前とDCZ注入後で比較したもの。縦軸の値がマイナスとなるのは、DCZの注入により情報の流れが減少する場合。赤丸は有意な減少を表す。内側前頭前野から視床下部外側野に向かう低周波帯域の情報の流れが、他者の報酬確率が変化する条件のみにおいて減少していることが分かる(赤い矢印)。
この研究の社会的意義
他者の報酬を気にしたり、それを知ったがために他者に嫉妬を覚えたりするなどという人間らしい「こころ」のはたらきを生み出す神経回路を明らかにできたことは、未だ歴史の浅い社会神経科学研究にとって大きな前進です。この発見を契機として、今後、複雑な社会的感情の神経基盤の解明が進むものと期待されます。
ヒトは、自己と他者の様々な属性を比較して、自己の価値を実際以上に高く、あるいは低く評価してしまうことがあります。そうした認知特性の個体差と、内側前頭前野・視床下部外側野間の神経回路の結合の強さとの間に、どのような関係があるのかを調べることは、こころの個体差の神経基盤の解明につながるものと期待されます。
論文情報
Chemogenetic dissection of a prefrontal-hypothalamic circuit for socially subjective reward valuation in macaques.
Atsushi Noritake, Taihei Ninomiya, Kenta Kobayashi, and Masaki Isoda.
Nature Communications. 2023年7月20日
https://doi.org/10.1038/s41467-023-40143-x
お問い合わせ先
<研究について>
自然科学研究機構 生理学研究所 認知行動発達機構研究部門
教授 磯田 昌岐 (イソダ マサキ)
<広報に関すること>
自然科学研究機構 生理学研究所 研究力強化戦略室
リリース元
自然科学研究機構 生理学研究所
583,3557
3556
536
3705,3971
3556,3971,3705,536