ご挨拶

2010年10月U   伊佐 正 

                             ゲノムと霊長類の脳科学
最近、色々な方と議論しながら、今後10-20年の新しい研究パラダイムとして考えていることがある。私が思うに至った一つのきっかけは今はNIHに移られた彦坂先生たちが2004年に発表された論文にさかのぼる。(Kawagoe et al. J Neurophysiol (2004) 91: 1013-1024)
この論文では、彦坂グループが開発した1DR, 4DRというサッケードの開始数秒前に次の課題での報酬量の多寡が予測でき、サルは次に沢山報酬がもらえるか少ししかもらえないかが分かっている状況でサッケード課題を行う場合と報酬量がいつも同じ場合とで大脳基底核の線条体や黒質のドーパミン細胞の活動を比較している。興味深いのは4頭のうちの1頭が他の3頭と異なり、どうも報酬によるドライブが全くかからないらしい。行動を見ても、普通のサルは報酬が多いとわかっているとサッケードの速度は速くなるがこのサルは報酬が多かろうが少なかろうが全く同じ。さらにすごいのは線条体やドーパミン細胞の活動も全く違う。普通のサルの線条体ニューロンやドーパミンニューロンは報酬の予測と密接に関連するがこのサルの線条体ニューロンは運動の方向性と関係するだけだし、ドーパミンニューロンも報酬にロックした応答が起きるだけで、報酬を予測する手がかり刺激には全く応じない。このように「異常なサル」の「何が異常か」が見事に記述されているのである。Discussionで彦坂先生たちは、このサルはパーキンソン病と似ているかもしれないが、TH染色でドーパミンニューロンの欠落は見られないことから、おそらくそうではないだろう。ケージの中の行動からはむしろ統合失調症か、自閉症に近いのではないか。と論じている。この研究はここで止まっているのだが、さらに偉いな、と思ったのは、こういうサルは普通の実験には適していないかもしれないが、病態モデルとして大変重要なので、いろいろな霊長類センターが連携してこのようなサルをデータベース化する必要があるのではないか、と訴えていることである。最初にこの論文を読んだときには、そうは言ってもニューロン活動を記録しないと異常が分からないのでは困るなあ、と思っていたのだが、今や時代が変わりつつある。今年、ニホンザルの全ゲノム配列を確定する予算が取れた。SNP解析も少し始まる。とにかく次世代シーケンサーの時代である。遺伝子から入る方法が現実的な手段になりつつある。NBR関係で委託している民間施設と京大霊長研それぞれに700頭あまりのサルがいて、これはgeneticsができるサイズである。ヒトの疾患などでわかってきているゲノムとMRI画像による脳の構造画像(VBM)とから異常な個体や家系を抽出する(特に統合失調症や発達障害に着目)、そしてそれらの個体の集団での行動から実験室での認知課題の成績、さらには神経活動、遺伝子発現を徹底的に解析する。一方、コザルを増やして(できれば双子が取れないか?)それらに幼児期にいわゆる「介入療法」を行い、その効果をまた生物学的に徹底検証する。そのようにして、ヒトやマウスではなかなかできないエビデンスに基づく認知機能の個性と病態の解明と治療法の確立を目指す・・・なんていう壮大な計画はどうだろうか?

最近サルの脳科学が今後どうなるのかを考えることがよくある。勿論再来年から第三期を迎えるニホンザルのナショナルバイオリソースプロジェクトの代表者としての責任もあるのだが、それだけではない。1990-2000年代に一世を風靡した「単一神経細胞活動による高次な認知機能のneural correlateの探索」というパラダイムからそろそろ一歩進めなくては。そこで重要なのはやはり「人間のモデル」ということと「ヒトでもマウスでもできないこと」という視点だろう。研究が一回りして、そろそろ「本当にサルでやるべきことは何か」を考え直す時期に来ているように思う。
私自身は勿論single unitの仕事もしてきたけれど、もとはネコでの神経回路の解析、破壊実験と行動実験、さらにはパッチクランプ法による分子生理、局所回路の解析という足場もあるし、それらの分野の移り変わりも見てきたので「単一神経細胞活動による高次な認知機能のneural correlateの探索」には自分自身、正直言って完全には乗り切れなかった感もある。だから余計にそう思うのかもしれないが、やはり「システム」神経科学という立場は大切にしたい。そこで大切なのは「全体を見ようとする視点」と「因果関係の立証」であり、今後の展開を見据えた場合の「ゲノム科学との融合」だろう。そういう意味では、まだまだ希望は持っていて、今後ブレークスルーとなるパラダイムのキーワードとしては
1. ヒトの脳・脊髄損傷モデルとしての霊長類
2. ゲノムをべースにしたヒト精神神経疾患のモデルとしての霊長類、さらには疾患モデル家系の保存と子孫に対する介入による治療法の検証(上述)
3. BMI
4. 脳プロでやっているような神経経路特異的な遺伝子発現調節ないしは破壊法、さらにはoptogeneticsによる切れ味のよい活動操作技術
5. ECoG電極による広汎な脳部位からの記録・刺激
6. 霊長類脳特異的遺伝子
・・・といったところだろうか。(へそ曲がりな私は敢えて「社会性脳科学」は入れていない・・・2.には含まれるだろうが、何故かは言いません。)
これらはいずれも大変重要かつ日本がこれから圧倒的に世界をリードできる分野であると確信している。うまくいけばまた10-20年、楽しい時代が訪れそうである。

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 伊佐 正 教授 
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