ご挨拶

2012年9月T   伊佐 正 

                                  動物実験は必要か?
・・・・という議論をこれまで動物実験に反対する方々や動物愛護団体の皆さんと繰り返してきた。動物実験を何故するのかというと、当然ながら、ヒトで調べられることには限界があるからだ。生体の機能や薬物・毒物の効果を調べるには侵襲的な研究が必要で、そのために私たちは動物を用いている。過去にはサリドマイド薬禍など、悲惨な薬害事件があった。もう少しきちんと動物(特に霊長類)で薬の催奇形性が検証されていれば・・・と思う。こういう考え方をする立場の人たちは私も含めて、ヒトとそれ以外の動物の間に明確な線引きをしている。一方で、我々人間が自分たちの利益を過度に優先して他の動物たちと共存する気持ちを失い、地球環境を破壊し、現在のような地球規模の危機を招いているという、「人間中心主義」に対する批判というものがある。そういう主張をする人たちのひとつの極論は「人間は自分たちの利益のためにこれ以上他の動物を犠牲にするな。人間の問題は人間同士で解決せよ」ということになるのだろう。このように「人間では解決できないから動物を使う」人たちと「人間の問題は人間で解決せよ」という人たちの間の溝は限りなく大きい。一方でその間に様々なレベルでの主張がある。動物実験を推進する人たちの主張として、「動物実験を否定する人たちは、現代医療そのものを否定しているので、そういう人たちは病気になっても医者にかかるべきではない」。それに対して「もうこれまでに開発された薬だけで十分。新たな薬の開発はこれまでに開発された物質の改変だけにして、新たな開発はもう不要(難病の患者さんやその家族が聞いたらどう思われるだろうか)」。また、「臨床に直結する研究にはサルは使ってよいが、純粋に基礎的・学術的な研究には使うべきではない」。という主張もあれば、それに対して「基礎研究あっての応用研究。基礎研究の否定は真理を見る目を失わせる。」という主張。そういう中で一応、現状での「動物実験の必要性は認めるが、3Rは順守すべき。」「動物実験は実験用に繁殖された動物で」というのはある意味で多くの人が賛同できる最大公約数的な線だが、3Rは理念としては正しくてもそれをどのように実体化するかは必ずしも簡単でない。また、3Rを主張する足場を動物愛護に置くのと、科学的厳密性の担保に置くのとでもやり方は随分違ってくる。上記のように細かく議論し出すとキリがない。このような議論をすることに意味がないとは言わないが、一旦強い意見を持ってしまった人たち同士の議論は時として神学論争・哲学論的で、合意はなかなか容易ではない。
一方で、私は動物実験の結果が結局どの程度ヒトに外挿できるか、という点については十分な科学的な議論が可能であるし、もっと検討されるべきであると考える。動物実験に反対する人たちの主張の一つに「動物実験の結果は実際には人間の医療に余り役に立っていない」というものがある。そう言い切ってしまうのは無茶な誇張ではあるが、確かに動物とヒトでは代謝系も違うし、いろいろな受容体も違っている。従って、せっかくマウスを使って開発されてきた薬がヒトでは効かないという例もゴマンとある。せめてサルで確認してからヒトに移るべきだ。しかし、では、サルを使えば十分かというと、まだマウスだけで結論を出すよりはマシであるとしても、サルとヒトの間でも、まだ遺伝子が数%違うことを考えれば、最終的にはヒトで試さなくては本当のことはわからないという点は否定できない。私自身の基礎的な脳科学研究においても種差・進化の問題は重要なポイントである。昔はLashleyの「三位一体説」のように下等な脳の上に新しい脳が追加されてくる、というスキーマのように、生存・生命の維持に関わるような基本的な構造は保存されており、そのような部分の研究は下等な動物で十分できる、ということが主張されてきたし、それを信じている研究者は今も多い。その立場に立つと、「この階層の研究はマウスで十分」ということになる。しかし、実際に異なる種の動物で特定の神経系がどのように使われているかを比較して調べてみると、この考えが間違っていることは明白である。例えば、私が齧歯類、ネコ、サルで調べてきた、大脳皮質運動野などの上位中枢からの運動指令を上肢の筋の運動ニューロンに伝えている「脊髄固有ニューロン」は、齧歯類では皮質脊髄路からの入力は弱くて網様体脊髄路からの入力を主に受けている。そしてネコでは皮質脊髄路から入力を受けるが主に上肢のリーチィングのように、より肩や肘などの近位筋の運動を主に制御しているがサルになると手指の精緻な運動が発達してくるのに伴って、指など、遠位の筋への支配が強くなり、指の精密把持運動にも関与するようになる。このように、「系統発生的に古い神経系」の機能も、新しい脳の構造が追加されるのに伴って「変わる」のである。つまり、結局ヒトの事はヒトを調べなくてはわからない、ということはある意味で正しい。
それでは、サルでの研究、マウスでの研究(さらにはショウジョウバエや線虫の研究)に意味がないか、というと決してそういうことを言っているのではない。ヒトでは直接調べることはリスクが大きいので、ヒトで試す前にサルを使う必要がある。一方でサルでは使える匹数に限りがあるので、まずはマウスできちんと調べる必要がある。ただ、どこまで種差を越えての外挿が可能か、ということについては慎重な検討が必要だし、そのような比較生理学的研究をきちんと行っていくことが、動物実験の有用性を高めるうえで今以上に推進される必要があるだろう。また、ヒトの遺伝子、受容体などをマウスに発現させた「ヒト化マウス」を用いた研究は、今後動物実験を考えるうえで大きな争点になってくるだろうが、私自身はその有用性が十分に検討されれば、やはり推進すべき重要な研究であると考える。少なくとも現在の技術が到達可能な範囲において、「ヒトだかマウスだかわからない生き物」が出現する可能性は極めて低いと考えるからだ。
以上の議論を踏まえると、今後は、マウスの研究者はマウスだけ、ヒトの研究者はヒトだけ・・・というのではなく、階層・種差を越えて特定に機能を研究し、種を越えた外挿が可能な範囲を厳密に検討する研究が重要になってくると考えるがどうだろうか。

(以上の文章は様々な観点を考慮して慎重に書いています。本文を引用される方は、決してその一部をつまみ食いして「伊佐がこのように書いている」とするのではなく、全体を通した論旨を十分に理解した上で引用していただきたいということを強く要望します)




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 伊佐 正 教授 
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