ご挨拶

2014年4月   伊佐 正 

“信頼”

 この欄にSTAP細胞が出たときの感想を書いたが、その後、現在のような展開になるとは思わなかった。書いたものはその時の正直な印象なので、今更撤回しようとは思わない。この件自体については既にあれこれ言われているので、そこに今から加わろうとは思わないが、一言で言うとすれば、「ただただ真実が知りたい。」というところだろうか。
 ここでは、少し別の観点から思っていることを述べたい。この件について多くの人々が真剣に心配しているのは「日本の国際的信頼度の低下」が起きることだろう。国際的なジャーナルの編集委員会に出席すると、発展途上国、特にアジアで急成長している国などからの論文に不正行為が多いことについての議論の中で、編集委員長は「西洋と北米と日本以外の国については、科学に対する教育、倫理観が異なっているので、十分に注意して対処する必要がある」としばしば明言する。欧州神経科学連合の大会のプログラム委員会に出たときの議論でも、このグループにすれすれで入っているかいないかのような国があの手この手を使ってplenary lecturerを推薦しようとするのだが、結局多数決で選ばれるのもこれらの国ばかり、ということになる。本当にこのグループに入っていると言えるのは全部で高々10か国程度である。この「仲間」に入っているかどうかが、単に科学の分野に限らず、国の在り方として、実に重要なことである。要は日本人が科学的で創造的な思考ができ、「真理に対する公正な価値観」を共有している人々と見做されているかどうか、ということになる。この評価は決してお金で簡単に買えるものではない(勿論、それだけの資金力は必要だが)。日本がこのグループに仲間入りできるようになったのは、そんなに古い話ではないと思っている。戦後60数年間の先人たちのそれこそ血の滲むような努力の結果なのだ。私自身が体験した印象や先輩方の話から判断するに、1960−80年代くらいまでは、経済の発展とともに日本の科学はかなりの勢いで勃興してきたし、実際に素晴らしい研究もなされてきていたが、まだ日本人がやることは物まねが多く、丁寧な仕事はできるが、独創的な考え方などできない、と思われていた感がある。勿論、独創的なアイデアを出せる優れた研究者もいたが、そういう人は強い反発と攻撃に会ったし、信頼度を上げるために実に細かい部分にこだわって欧米人がやりもしないような緻密な実験結果をシンポジウムで語る日本人研究者にはあからさまに「退屈」という反応を示された。また、日本で行われる国際シンポジウムでは、外国人ばかりが流暢な英語で盛んに議論し、日本の偉い先生方は皆だんまり、という場面も多く見かけた。それが、1990−2000年代になって、さらに日本発の独創的で人をうならせるような研究が多く出るようになり、また多くの場面で正々堂々と議論できるような国際性と会話力を日本人が身につけるようになってきて、最近では、我々の分野では、世界のリーダー的な研究者達の多くが「システム神経科学のこの大変難しい研究分野で日本人は実に多くの貢献をしている」と普通に口にするようになった。私たちの今日があるのは、あくまでこのような先人達の築き上げた信頼感の土台があってのことで、我々はその上で踊っているのに過ぎないことを深く認識すべきである。
勿論、このような日本に対する「信用」には、科学の分野だけでなく、自動車をはじめとする産業界の技術力や、創造的な作品を発信してきた芸術家・文化人の貢献(Japan, cool!)も大きいと思う。
 最近、「基礎科学の社会的貢献は何か?多額の税金をつぎ込む理由は何か?」を問われることが多い。すると我々はすぐに医療への応用・・・などということを言いがちだが、実は、この日本人の国際的信用、日本人に対するレスペクトを維持する(高める)ことが実は一番大きいのではないかと思っている。逆に言うと、その地位を失う事の国としてのダメージがいかに大きいか、ということを皆もう少し真剣に考える必要があると思う。

(追記) 研究成果の不正については、科学技術の先進国だから不正が無いということではない。今や不正は世界中での大問題である。そういう意味では、「成果に対する強いプレッシャーによる不正」という事例が出てきたという意味で、日本もさらに先進国の仲間入りした、というシニカルな見方もできないわけではない。しかし、長年科学そのものを作ってきた国々で起きた不正によってそれらの国の国際的信用度は落ちはしないだろうが、我々日本は最近になって仲間に加えてもらえたばかりの、あくまで「後発部隊」であることを認識しなくてはいけないだろう。





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 伊佐 正 教授 
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